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『RRR』

ようやく観ました。

とにかく気分爽快、スカッとする映画でした。
180分間、ずっと爽快感を強制的に感じさせられてる、みたいな体験。観るストレス発散。

ドカンドカン建物が爆発したり、歌や踊りのビートが身体を震わせたり、友情や恋の様子で心がアツくなったり、正義が悪を徹底的に懲らしめたり(最後、イギリス側の総督みたいなやつを、「撃つ価値もないやつだ」とか言って撃たずに逃したり、勝利を喜んでる主人公が逆に撃たれそうになるのを大切な人が身代わりになって守って死んじゃったりせず、しっかり丁寧に心臓を撃ち抜いて「銃弾の価値を示して」くれたのが、個人的にはよかった)…。

総じて観に行ってほんとに良かったと思える映画でした!




本題はここから。

こんな爽快な映画を観たのに、その爽快な気分を相殺してくるイラつく要素が映画館にはありました。


そのうちの97%が、
隣の2人が上映中に普通に喋る方々だったこと。

つい声出して笑っちゃう、とかなら全然許せるし、むしろ『RRR』みたいな映画では、それがさらに映画体験の楽しさを高めると思うんですが、もう普通に感想を伝えあってる。予告編で結構喋ってて、これは雲行きが怪しいぞと思ってたら、本編始まってからも「すごいね」とか「いやいやそんなことある?」とか言いあってる。うるせえよ。

映画終わって席を立つ時に顔を見てみたらもういいおばさんたち。子供かと思ってたよ。大人なのに喋るなよ。

思うに、

映画を観に行ったとき感想を言い合いながら観る
→お互いに感想を言い合って観るの楽しいから映画に行く時は誰かを誘って感想を言い合いながら観る
→上映中に喋るのはちょっと…って思うような人はそのうち一緒に行ってくれなくなる
→「そういう価値観」を持ったおばさん同士だけでつるむようになる
→喋りながら映画を観るのが当たり前になる

みたいな地獄の連鎖があるんでしょうね。恐らく。

あれですよね、サウナの中ですげえ喋る人たちとかも、このおばさんたちと同じ種類の人たちですよね。

サウナのなかで喋っても別に良くね?みたいな人たちでしかつるまなくなる(常識的な人はつるんでくれなくなる)から、自分達がどれだけ周りをイラつかせてるか気づけない。

で、大体そういう人たちって、ひとりサウナとかひとり映画とかしない(できない)ような人たちだから、集団の行動がどう見えるのかってことを客観的に見るチャンスも無いんでしょうね。

まぁこれ、ぼくの器が小さい/心が狭いと言ってしまえばほんとにそれまでの話なんですよね。


最近、周りの人の行動でイラついてしまうことが前より増えました。

自分にとっての常識や正義に反することに対して、人はイラつくのだと思っています。
だとすると、ぼくは、自分のなかの常識や正義みたいなものが前より増えてきた/確立されてきたということでしょう。

これはぼくにとって、ある意味ではとても怖いことなのです。
なぜならぼくの中には、【自分の正義が強すぎる人】や【自分の常識を押し付ける人】になりたくないというとても強い正義(この時点で矛盾してるのですが)があるからです。


上映中に喋ることは、その施設のルールによって禁じられている行為なので、今日のぼくのイラつきは正当なイラつきであり、もしぼくがその人たちを注意していたとしても、それは「ぼくの常識の押し付け」にはあたらないと考えています。
(これを書いて気づきましたが、ルールとかマナーも所詮、大多数の人がたまたま共通して持っている正義でしかないのかもしれません)

しかし、ぼくが最近イラついてしまうことのなかには、正式にルールで禁じられていないことも含まれています。
そのイラつきは、自分が嫌っている「強すぎる正義」から生まれているものと言える気がします。今よりも少しだけ寛大な心を持って(正義を弱めて)イラつきを抑えたいです。それができないとしても、少なくともそれを注意する(常識を押し付ける)ようなことがないようにしないといけないですね。

そうしなければ、自分の正義に反することになりますし、いわゆる「老害」と言われるようなめんどくせえ存在になってしまうような気がするので。



そして、イラつき要素の残り3%は、スクリーンを見上げ続けたことによる首の痛みです。映画を観るとき、A列はやめた方がいいです。

あ、これは押し付けではなく、推奨です。

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