生まれた事は罪になりえるのか?

「生れた事は罪になりえるのか〜真の悪は存在するか〜」


死刑制度の是非は現代社会において、多く議論されつつも先進諸国の間ですら制度がバラついています。

経済的な力や、それを担保する産業といったものさしで比べようとしても相関性はあまり見受けられません。





この画像は死刑制度の認否を色分けした国別配置の地図です。


(Wikipediaより引用)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6


主に赤が死刑制度ありの国、緑がなし、その他の色は説明を簡略化しますが、特殊な条件下のみや実質的には廃止されている国です。


この地図の赤と緑を見比べたとき、ざっくりと赤色の国で情報も入りやすく馴染みのある国だと「アメリカ」「日本」「中国」「インド」でしょうか。

緑色だと「ヨーロッパ各国」「カナダ」「オーストラリア」がわかりやすそうです。


すべての国ごとに比較は難しいので、シンプルに赤色と緑色の国々をいくつか選択しましたが、それぞれの国の特色として大きく対比して考えられうるものは何でしょう。



私はこう捉えました。

「夢もあるが、儚さもある。」


これだととても抽象的ですね。もう少しだけ具体的に説明すると…

「チャンスも大きいけど、リスクも大きい。」

といったところです。


赤色の国々はそもそも人口の数がおそろしく大きいです。

中国とインドは言わずもがな、日本も東京広域の実人口は3000万人とも一説では言われ、人口密度では東京は圧倒的な世界一です。


アメリカは密度で考えるとそこまでではないですが、日本3倍弱の人口です。(ちなみに中国とインドは日本のほぼ10倍で13億人くらいです。)


単に人口だけで断ずるのは短絡的ですが、ある意味これが意味するのは、人ひとりの命を保護する価値が低い、すなわち、「命が軽い」とも言えます。


この観点は少子高齢化という重い鎖を引きずっている日本においては適切でない部分も大きいのですが、日本における少子高齢化問題は今回のテーマからずれてくるのでまた別の機会に掘り下げようと思います。


さて、今年、とある罪を犯した死刑囚がこの世を去りました。

でも去ったことの是非は言及するつもりはないのです。


この世を去ったということは、時を遡れば、この世に来たということです。

つまり、この世に生まれたということ、誕生したという事は罪になりうるのでしょうか。

このような話をするとどうしても、思想的、哲学的な解くことのできない知恵の輪の様な事しか答えは見つからないでしょう。


もし仮に答えがあるとしたら、それは、その人の中にしかあり得ないはずです。

信念と言うのでしょうか。幼い頃から形成されてきた、例えば宗教的な価値観や、自ら掴み得た価値観でしか答えはないはずだと…私は思っていたのですが…


少しだけタイムリーな話題、かつ圧倒的な存在感を放っている概念について考えてみます。


「自己責任論」です。


この概念について私はこう認識しています。

もし自分自身に何かマイナスな事が起こった場合、原因は自身の行いが招いたもの…要するに…


「全ては私の不徳の致すところであります。申し訳ありません。」


と言った台詞にしてみると何かの光景が浮かんできそうです。

一方、この「自己責任論」の裏にさり気なく隠れている概念が…まさに…ひっそりと場を支配しているとも感じています。


対偶となる言葉はないのですが、強引に造るとしたらこうでしょうか。


「他者無責任論」


これを2つの意味で考えてみましょう。

先ずは、他者は自己に対して責任を取ることはないということです。

次に、他者は自己に対して責任を取ることはできないということです。


ほぼほぼ概要は同じなのですが、崩した言葉でまとめると…


「他人は自分のした事に責任を取ったりしないし、そもそも自分のなす事に責任なんて取れるわけがない。」



ここまで話が逸れたところで本筋に入っていこうと思います。


それでは、「命」、例えば、人がこの世に生を受ける事、「誕生」は自分の責任なのでしょうか。

それとも、他人の責任なのでしょうか。


一般的には家族、すなわち自分と他人の間の存在に責任の所在はあると落ち着きそうです。

生まれの貴賤、貧富は今後取り扱いたい大テーマの一つです。


しかしここでは、あえてこの間の存在を無視した2つの場合を仮定して知恵の輪を解こうとしてみます。


もし「誕生」が自己責任ならば、生まれ持ったアドバンテージと相対してハンディキャップは自分の持って生まれた…なんと言葉を当てはめましょうか…特性です。


アドバンテージを持って「誕生」することはラッキーですね。

と単純には括りたくので抵抗を試みます。


逆の場合、もし「誕生」が他者の無責任ならば、ハンディキャップを持って「誕生」することはアンラッキーですね。


お話が少しダークになりそうな気配がしてきましたが…

これらを悪い方向に組み合わせると更にダークさが増してきます。


他者の無責任でハンディキャップを持って「誕生」しても責任は自分にある。

こういう形で世間から認知された場合、『この人』の目指す先の到達点は何処に向かうのでしょう。


かなり際どい問題ですが、歴史上、このような「誕生」は不幸とみなされ、無かったことにされてきたこともあったのかもしれませんね。


人の「幸か不幸か」を断ずることを許されている人が存在しているかはわかりませんが…



ここからは私の主観が大きく出るかも知れません。

お許しください。


無かったことの話はここでは無かったことにしましょう。

現代では遺伝上の関係等と諸説ありますが、人が生来的に「善」の心を持っているとしたら…


『この人』は人生の流れの中できっと何度も傷付くと思います。

「善」の心を持っていても、その心は何度も土足で踏み入られ、釘を刺されると思うのです。

何故なら自身の存在がときおり、生粋の「善」とみなされないからです。要するに被差別にさらされがちだからです。加えて、己の不徳の致すところ、かもですから。


逆に生来的に「悪」の心を持っているとしたら、自身は己を生粋の「悪」だと自覚するかも知れません。


「善と悪」だと抽象的過ぎてリアリティに欠けてますね。

要するに、どちらの場合も、汚い言葉を使えば『屑人間』と自分の事を思ってしまうのではないかという、ちょっとした想像です。


これでもかなり極論にお話を振っていますが、何かしらの歪みが生まれる可能性は高まるでしょう。


ただし、どちらの場合でも関係なく人は生まれた時に無限の可能性を持っているとよく言われるように、少なくともかなりの可能性、「何色にでも染まる真白の紙」であるはずです。


となると、その白紙に色を描くのは…


『自己ではなく他者』


自己と他者はお互いに責任を取り合うことは難しいですが、影響を与えるのは難しいことではないどころか、特に幼子の場合は容易です。


途中で述べた通り、答えは信念としてしか見つからないでしょう。

であればこの時、『真白の紙は罪にはなりえない』と信ずるところです。


『生まれた事は罪にはなりえない』


しかし、『罪の色に染まった紙 』を作るのは自己のみならず、他者です。



となると、「真の悪」もしくは「真の善」は存在し得るのでしょうか。

よく、悪意、偽善などといった単語は使われます。


そして『真の悪人』については、私は実在しないはずと思いつつ、存在はすると…ひっそりと思っています。

人々は時に人を超越した存在を生み出したりしていますし…
(続く)




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