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許せないんじゃなくて

自らの「人としての器」がとっても小さいことは自覚しています。
だからこそ、「少しでも大きな器になりたい、寛大な人間でありたい」との思いから、ごくたまに世界平和を祈ってみたりします。
けれども、実際は極小の器の持ち主なので、過去の傷や恨みをなかなか忘れることができません。

世界平和と見知らぬ人々の友好を願うくせに、知っている特定の個人をしぶとく恨んじゃう。
もちろん、常に執念深く覚えているわけではないのですが、ふとしたきっかけ(たとえば小説やドラマで似たような登場人物が出てくるとか)で思い出しては、「あー、あの時辛かったなあ」とか、「あの人のあの対応はやっぱり酷いよね」と、反芻してしまいます。

『忘れることは許すこと』とよく言われるので、受けた傷や憎悪を忘れられない自分は、許す力が足りないのだ、至らない人間なんだ、とずっと思ってきました。

でも、最近ちょっと違う気がしてきたのです。
至らない人間であることに変わりはないのですが、そもそも、「許す、許さない」という問題ではないような。
こちらが一方的に「許す」という上から目線の被害者であるつもりは毛頭ないし、あちらとしても「許されたい」なんて思っていないはず。

なんだろうな、この感覚。
そう思って考えていたら、気がつきました。
単に、「嫌い」なんだと。
小説やドラマで似たキャラクターを見て忌々しく思い出してしまうのは、その手のタイプが嫌いだから。
人間ですから、好き嫌いはあってもいいじゃない? 
圧倒的に好きな人の方が多いのだから、一生のうちに一人や二人(や三人や四人……)、どうにも嫌いな人が存在してしまっても、仕方がないのでは? 

「許せない」んじゃなくて、「嫌い」なの。

そう思ったら、「人を許せない自分のダメさ」が減った気がして少しだけラクになりました。他人をしつこく嫌う時点で思いっきりダメなんですが。
いずれにしても、忘れちゃうのが一番であることは確か。
心にも削除機能、あったらいいのになあ。
最近は物忘れも多いから、そのうちきっと忘れるのでしょう。
そして、こいうことをチマチマと考えて悪あがきするところが、器小さいってことだな、とつくづく思います。

あ、お客様のことは大好きです。本当です。
小さな店の小さな器の店主です。


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