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毛虫新聞

一雨ごとに緑が増えていくこの季節。
当店は国立公園の森の中にあり、テラスに面したガラス戸のロールカーテンを上げると、手前にヤマボウシとコナラの木、その向こうに駐車場と道路を挟んで市が所有するカラマツ林の苑地が広がっています。
ついこの間まで葉を纏わない木々だけが並んで見通しが良かったはずなのに、今はもうすっかり繁った葉で窓から見える景色は緑一色。
こうなるともう、雨の日には店はまるで緑の海の底に沈んだよう。

ここの季節の色は、「夏は緑」「冬は白」と、どっしりとした安定一色が続きますが、春と秋は1日ごとに窓の外の景色が微妙に変わっていくので、何年暮らしても毎朝カーテンを開けるたびにちょっとした驚きがあります。
何事も変化の著しい時には、安定しない代わりに息をのむほどの感動や発見があるのかもしれません。

さて、色が緑に落ち着つくということは、テラス前の花壇や駐車場の雑草も勢いを増します。
というわけで、お客様のいない時間帯に、苦手な虫に怯えながらチマチマと草取り作業に勤しむのがこの時期の習慣です。
草取りというのは、雪かきや薪仕事と似ていて目の前の単純作業に黙々と集中して体を使って頭を空っぽにできる上に、仕事量が目に見えて捗った感が得られ、何より「お客様がいない」というヒマ地獄から逃避できるのが良いところ。
お客様はいないけれど、一応仕事しているもんね、と自分を納得させられます。
6月ってお客様が少ないんです。

そんな草取り作業をしながら空っぽになった頭に浮かんでくるのは、子供の頃に聞いた祖母が話してくれた「毛虫新聞」のこと。
草取りをする祖母のそばに行った幼い頃のわたしが、そこで大嫌いな毛虫を見つけて大騒ぎした時のことです。
祖母はすぐに傍らにあった石を取り、それを毛虫の上に乗せて潰しながら言いました。

「ああ、明日の『毛虫新聞』に載っちゃうよ。
 『昨日午後、われらが毛虫の仲間が1匹、憎き人間のおばあさんに殺されました』って」

それを聞いて、毛虫の上に乗った石を見つめながら、明日発行される『毛虫新聞』を思い浮かべていたわたし。
祖母の冗談だとわかっていながらも、紙面を思い浮かべ、さらにはわたしのために毛虫を殺して毛虫警察に連行される祖母まで妄想して、ゾッとしたものです。

あれから40年以上経って、あの頃の祖母に近い年齢になったけれど、毛虫を石で潰すことはできません。
草取り中に育てている植物に付いた毛虫を発見した時は、勇気を振り絞ってほうきを使ってちりとりへ移し、そして離れた草むらへ持って行ってポイっと放って移動願っています。
これができるようになっただけでも大進歩です。
毛虫警察に連行されるのも毛虫新聞に載るのも嫌なので。
というか、石を通しても潰す感触が伝わるのが一番嫌なので。

迷ったり、悩んだり、苦しかったりした時に、つい祖母を思い出して「どうすればいい?」と聞くことが多かった山暮らしのはじめの頃。
もちろん祖母が現れたり、答えたりしてくれたことは一度もなかったけれど、思い浮かべるだけで心が落ち着きました。
草取り作業で地べたを見つめ続けた後、木々の葉のその向こうの空を仰ぎ、今も思い出します。
あちらの世界で祖母はずいぶん心配したと思うので、これからはできるだけ嬉しかったり楽しかったりする時に思い出して報告したいなあ、と思う草取りの季節です。

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