カフェと雑貨とデザインと
写真は『ダークチェリーとブルーベリーのチョコレートタルト』。
誕生日プレゼントに、ということでオーダーを頂いた。
あまり誕生日ケーキにふさわしくないくらいのゴティック感が出てしまったけど、喜んでもらえたようで良かった。
著書『すべての雑貨』(三品輝起、2017年、夏葉社)に『雑貨の銀河系』というタイトルの頁があり、その頁は次のような文章で始まる。
2023年6月、尾鷲市から車で1時間ほど南下した和歌山県新宮市の『スーパーセンターオークワ』に『無印良品』がオープンした。
『無印良品』がオープンしたくらいで何だ、と思われるかもしれないが、東紀州地域は長らく『無印良品不毛地帯』で、一番近いところでも津市にある『津南イオン』まで行かないといけなかった。
(それより前は四日市が最寄りの『無印良品』だった。)
三品氏が著書で『雑貨の地図のどまんなかにそびえたつ国民的インフラ』と形容した『無印良品』。
そんな『雑貨界の国民的インフラ』がついにこの東紀州地域にも整備されたのだ。
『無印良品』に関してはとても深い思い入れがあって.....というか、『お店をどうやって経営していくか』を考えて色々と勉強をして、カフェとかデザインの本を読んでいると、必ず、どこかで『無印良品』というワードに行き着くことが多く、お店作りのことを考えるにあたって『無印良品とは何なのか?』を考えることは避けて通れないな、と思った経験をこれまで何度もしてきた。
それはまた後述するとして、車で1時間、という絶妙な距離にできた『無印良品』に行ってきた。
店内で色々と見ていると、
「ハマノさん!?」
と声をかけられた。
何と知り合いがレジをしていた。
「えー!ここでバイトしてるんですか?めっちゃいい職場ですね!」
「ハマノさんも働けますよ!(笑)」
などと言葉を交わしたが、実は私、学生時代『無印良品』で本当に働いてみたい、と思っていた。
現場のスタッフよりも『無印良品』の商品開発に興味があった。
学生時代、『デザイン好き』『デザインマニア』な部分があり、『無印良品』のそれは、ある意味では、生活雑貨におけるひとつの『デザインの到達点』『正解のデザイン』だと思っていたので、その商品開発に興味があった。
今でこそもう『無印良品は優良なデザインの到達点』とまでは思ってないが(失礼)、それでもやっぱり久しぶりに『無印良品』の店内を見ていて、例えば家電.....サーキュレーターやトースターなどのデザインはとても良かったし、台所用品や洗濯用品や掃除用品に関して、それらが人前で使うことはないような日用品であっても、長く、機能的に使えるデザインを追求していることにはとても好感を持てた。
しかしその一方で、冷凍食品、レトルト食品、お茶、コーヒー、お菓子などのラインナップが激増しており、それらがずらりと並んだ商品棚は(あの無機質なラベルが貼られることによって)、なんだか『工業製品』『病院食』が並んでいるように見えてしまって(失礼)、それがいつも私をげんなりさせる。
その部分だけは未だに好感が持てないでいる。
(食品に関してはまあ、職業柄、というのが深く関係しているのだと思う)
とは言え、かなり大きい規模の『無印良品』が近くにできたことはとてもありがたく思う。
(実はカフェで使用している水を出す時に使っているコップは『無印良品』のもの。数個割れてしまって数が少なくなった時は遠出した時に『無印良品』に寄ったり、ネット通販を利用してコップを買い足していたのだが、実店舗が近くにできたことによって買い足しも楽になった)
『デザイン』ということを勉強していると、『デザイン』の行き着く先に『シンプル』というひとつの答えが見つかる。
(あくまで『ひとつの答え』として)
それが全てではないけど『デザイン』において『引き算』が要求された場合、その正解の答えが『シンプル』だ。
全てを削ぎ落とし、機能性に特化したシンプルなプロダクトや生活道具は美しい。
美しいと同時に『それだけではつまらない』『色味や柄や模様が欲しい』『自分の個性が欲しい』と思う人もいて、そこに楽しさや面白さや個性や『機能美とはかけ離れたもの』が『足し算』されていく考えを『アート』というのだと思う。
人間の価値観は常に『デザイン』と『アート』の間を揺れ動いている。
『シンプル』や『機能美』は『デザインにおけるひとつの正解』だとは思うけど、それが全てではない。
『シンプル』は『デザインの極北』に位置するけれど、その反対側に位置するの価値観との間の『振り子の幅の端っこ側』の意味しかない。
『シンプルなものに囲まれた生活が、デザイン的に正しい』とするならば、アップルの製品と無印良品の製品に囲まれた無機質、かつ無個性な生活がデザイン的に正しい、ということになってしまう。
もしそれが仮に『正しい』としても、それはあくまで『正しさのひとつ』であって、どう生活していくか、どんな生活道具に囲まれて生活するか、どんな暮らしに『豊かさ』を感じるかは、結局はその人の感性、思想、好みの問題だ。
戦国時代を舞台に戦国武将や茶人の活躍を描いた漫画、『へうげもの』(読みは”ひょうげもの”)を読んでいると、ひょっとして、千利休という人は日本で初めてのデザイナー兼インスタレーションアーティスト兼キュレーターだったのでは?と思った。
そんなある日、手に取った『デザイナー誕生』(水尾比呂志著、1962年、美術出版社)という著書の冒頭に能阿弥、紹鴎(じょうおう)と共に利休が登場していて、納得した。
この著書は、『能阿弥、紹鴎、利休』を起点に日本のデザイン史をたどりながら、最終的に『デザインなきデザイン 民芸』という頁で幕を閉じる。
利休の思想の『本流』が、弟子たちによっていくつもの『支流』が作られ、その支流が行き着いた一つの思想が民芸、ということになる。
さらに時は流れ、民芸のアノニマス(無名性)とプロダクトデザインが合流したものの一つの答えが『無印良品』である。
(アノニマスという民芸の基準を排して、あくまで品質保証、意匠やクオリティの保証、という観点で日本のプロダクトやモノツクリの保護を目的として始まった日本独自の規格が『Gマーク運動』であり、さらにそれを発展させたのがナガオカケンメイの『ロングライフデザイン』という思想に繋がっていく)
永江朗著『ゼゾン文化は何を夢みた』(朝日新聞出版、2010年)にて、『無印良品』について書かれている。
80年代に様々な先駆的なアートやカルチャーを紹介してきたセゾングループ。
恥ずかしながら『無印良品』の出自がゼゾンの思想からであることを知ったのはこの仕事を始めてからだった。
無印(ノーブランド)の誕生の背景には、バブル景気が到来し、その意味もわからず、記号的な部分だけをありがたがり、権威づいた高級なブランドへの盲信的な志向・信仰への強烈なアンチテーゼがあった。
まるで舶来ものを崇拝し、新しく、豪華で、きらびやかで、広く、大きく、明るいものを富の証としてありがたがっていた時代に、古く、質素で、地味で、狭く、小さいものにこそ日本独自の美が宿っていることを説いた千利休の思想のようなものだったのだろうと思う。
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