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時代を吹きぬけた風

ロシア革命の起こった1917年、ラフマニノフがロシアを離れ、その翌年からはプロコフィエフもロシアを長く不在にした。

しばらくプロコフィエフはヨーロッパやアメリカで演奏活動をしていたが、どこででも大家として歓迎されはしても、一般の人気を獲得することは出来なかった。日本にも来たけれど「お客さんが少なくて、少しの円しか手に出来なかった」と本人が言っている。作曲に加えて短編小説も書いていて、もしかしてそちらが評判になればとも思ったとか、思わなかったとか。

そうして15年以上が経ったころ、ロシアのマリンスキー=キーロフ劇場がオペラかバレエを作曲してほしいと、プロコフィエフに依頼してきた。題材も好きに選んでいいというので、1935年、プロコフィエフは久しぶりにロシアに戻って作曲をすることにした。

バレエ「ロミオとジュリエット」は、台本作家のピオトロフスキーと演出家のラドロフとの共同制作で、ハッピーエンドの結末になるはずだった。
でも、時期が悪かった。
「ロミオ」の音楽はすぐに完成したものの、演出家ラドロフが劇場を解雇された。そこでボリショイ劇場の総裁ムートヌィフが、ラドロフも一緒に雇って「ロミオ」をボリショイ劇場で翌1936年以降のシーズン企画にしようと提案した。その1936年、ショスタコーヴィチが「形式主義」に陥っているとしたいわゆる『プラウダ批判』にさらされ、ショスタコーヴィチのように国際的な名声を持ってしても、弾圧から逃れられないという現実を突きつけられた。という間に、こんどはボリショイ劇場の総裁ムートヌィフが逮捕・処刑された。「ロミオ」はハッピーエンドの結末を変更せざるをえなくなり、台本を作り直そうとしたところで、今度は台本作家ピオトロフスキーが逮捕されて獄中死した。

そんな大混乱のさなか、ロシア随一の大映画監督エイゼンシュタインが、プロコフィエフに映画「アレクサンドル・ネフスキー」の音楽を書いて欲しいと依頼してきたので、プロコフィエフはかねてから尊敬していた大監督との仕事とて速攻引き受けた。大作曲家と大映画監督は下手をすれば今度は自分が逮捕されるとわかっていたので、「形式主義ではなくリアリズム!」を合言葉(?)に、意気投合して大胆なリアリズム音響実験にあけくれた。
映画は1938年に公開され、大きな評判を勝ち取った。

プロコフィエフはその評判を得て、新作のオペラ「セミョーン・カトコ」を1939年に完成させて、かつて「三つのオレンジの恋」を一緒に制作した演出家メイエルホリドに任せようとしたら、ほどなくしてメイエルホリドも形式主義者として逮捕・粛清されてしまった。

プロコフィエフがヴァイオリンソナタ 第1番、そして「戦争ソナタ」と呼ばれるピアノソナタ 第6番、第7番、第8番を作曲し始めたのは、この時期のことである。

ピアノソナタ 第7番にシューマンの歌曲の引用がみえるように、ヴァイオリンソナタ 第1番 ヘ短調にも、おそらくロマン派の引用がある。それは、ブラームスのヴィオラソナタ 第1番 ヘ短調の第1楽章の結末で、第1主題がピアノの低域でリフレインされるところである。
ブラームスが書いた最後の器楽曲が、その頃、世界の終わりのようなものを目の前に見ていたプロコフィエフにどのように響いていたか。処刑台へのドラムロールのごときトリルが、一気に走馬灯へと誘う・・・ 、などという月並みな印象が頭をよぎったかどうかしないうちに、次の瞬間には、あらぬ世界の深淵に引きずり込まれてしまう。音楽で、なぜこのようなことが可能なのか。もしくは音楽だからこそ可能なのだろうか。
かつて、まだ学生のプロコフィエフを古典音楽に開眼させたとされる恩師ニコライ・チェレプニンはブラームスのことを「絶対的に純粋な、非の打ちどころのない音楽」と評していた。チェレプニンは同時に新しい音楽についても、プロコフィエフをして「自分が後れを取っている」と思わせるような深遠な解説をしたとのことである。ロシアでシェーンベルクの作品11を初演したのはプロコフィエフであった。

ヴァイオリンソナタ op.80は1938年中に全体図が出来上がり、しかし完成はされずに長く放置された。それが完成したのは恩師チェレプニンが死んだ翌年の1946年のことだった。第1楽章には1938年にはまだ無かった新しい要素、ヴァイオリンの長い走駆が付け加えられた。最初に譜面をみたオイストラフがその部分をどのように弾こうとしたのかは分からないが、演奏を聴いたプロコフィエフは「そこは墓場を吹き抜ける風のように」とオイストラフに言ったという。


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2022年2月10日(木) 20:00開演
「S.プロコフィエフ」- 第一夜
ヴァイオリン:漆原啓子
ピアノ:秋場敬浩


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