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消え去る、メメント・モリ

自分の死が、これほどに自分から遠いものと感じられたことがあっただろうか。

これまでずっと、自分にとって常に大事だったのは、自分自身と自分の死であった。親しかった自分の死は、こちらに向かって手招きをしていた。どこに連れていこうというのか、でも、そちらに向かって自分が歩くしかないことは分かっていたので、私は歩き続けてきた。

突然、ほとんど否応なしに、見たこともない他人の死が、割って入ってきた。自分の視界は遮られ、自分の死の手招きを見ることは一切叶わなくなった。何の親近感も湧いてこない他人の死と向き合って暮らす。そのようなことが出来るはずはなかった。でも、こちらが何をどうしようとも、他人の死はただそこにぶら下がったままで、他に何も見ることはできない状態が長く続くことになった。

他人の死は、みずからの居場所を知らせることが決してない。どちらを向いてもぶら下がっている他人の死の向こうがあったとして、私の生きる道はないように思った。私はそこから一歩踏み出すことを躊躇した。死に向かって歩くことは、そのまま死ぬことを意味しない。死は手招きをする理由を少しずつみずから語っては、確実に私との距離を縮めていた。それが生きることだと教わったことがある。むしろ、死に向かうことを躊躇したときに、私の生は終わるということも。

他人の死は、私を死に向かわせない。他人の死は、私を殺さない。しかし、すでに歩みを止めた私は、このまま死を受け入れるということとは全く関係のないところで、自分の生を終えるだろう。

かつて、こちらへと手招きしていた自分の死は、まだ私の傍にいるのだろうか。他人の死が、私の死と同じように手招きをしてくれるなら、私はそちらに歩きたいという気さえするようになっていた。でも、他人の死はまだ目の前にぶらりとしたまま、誰の手も見えない。

いや、やはり他人の死など、自分の知ったことではない。
そこにぶら下がっているだけなのであれば、そちらも私を必要としないだろう。

ある日から、私は仮面を被っていた。
そうでないと、私はその場所にとどまってはいけないからという理由に加えて、仮面を被る私は少し静かな人間であるという印象を他人に与えるということでもあるらしかったから、その点を少し気に入っていたという理由もあった。

仮面を被った私と、他人の死の相性は、どうやら悪くなかった。
仮面は私の代わりに、他人の死の顔色を窺っていた。他人の死は、向かい合って見つめるのが私であろうと仮面であろうと、同じ顔をしてそこにぶら下がっていた。そこにはひとかけらの緊張関係もなかった。

いま目の前にこうしてぶら下がっている他人の死のように、自分の死がノコノコと他人のところにいって一生懸命ぶら下がっていることを想像してみた。どこかの他人の死がいまここにぶら下がっているということは、そういうことになっているかもしれないのだから。
「あっちへ行ってちょうだい」 他人は自分の死に向かって叫ぶかもしれない。しかし、ただぶら下がり続ける自分の死は、その他人をどうしようということもないだろう。私としても、自分の死が見知らぬ他人の前でぶら下がっていることに対して、なんともしようがない。その見知らぬ他人は、自分の死を前にしてやはり仮面を被っているに違いない。

ある日、他人の死が目の前から消えていた。
事態は何も変わっていないのかもしれないが、他人の死がよく見えなくなった。でも、こちらへと手招きをしているはずの自分の死も、見えないままだった。

こうして、誰から見ても死の印象だけが希薄になっていくだけなのだろうか。
死から遠ざかりたいと、誰かが望んでいたとおりになったのではないか。
自分はそこから動きもせず、手招きもされず、ぶら下がっていただけの他人の死もとうとう遠ざかっていった。この上、何を望むのか。

仮面をつけ、静かさをたたえた自分の顔から、感情が消えていたとしても驚かない。その方がいいと言ってくれる人の方が多いのだとしたら、その方がいい。そもそも、自分の顔に何かの価値があったのだとしたら、それは他人にとってそうだったのに違いない。

自分がともかくも歩き出せるようになれば、それでいい。
歩き方を思い出すことの前に、忘れていることを知らなければいけない。かつて天才が作って残していたものの中に、死の印象があったのを思い出した。

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2021年9月22日(水) 19:30開演
「ラヴェル&シューベルト」

ヴァイオリン:上里はな子
ヴァイオリン:室屋光一郎
ヴィオラ:萩谷金太郎
チェロ:江口心一


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