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よどみに浮かぶうたかたなれど。

「お休み中、田舎へ帰ってたんだ。どこらへんなの?」
「ご両親のご出身は?」

日常で交わされる何気ない会話ながら、今ばかりは、私の返答を聞いた相手ははっとした顔をするかもしれません。

「石川県の能登半島です」


私の父の出身地は能登の小さな町ですが、今年に入り、その町の名を聞かない日はありません。
来る日も来る日も、惨状を伝える映像や写真と共に、町の名が報道され続けています。
その中には確かに見知った通りや街角があり、それらの場所の変わりように息を呑むことも少なくありません。


もう祖父母も亡くなり、父の生家もありませんが、代々の墓所がある他、近隣には親戚や知人が住まっています。

その人たち全員の安否が確認できたのはつい数日前のことですし、幸いにも生命に別状のある人はいませんでしたが、震災発生当時やこれまでの話を聞くと、凄まじいものがあります。


たとえば叔父は外出中に被災したため、車が地面から浮き上がるほど激しく揺れて、新種のアトラクションのようだった、と軽く笑っていました。

バスの中で関東大震災後に罹災した谷崎潤一郎も、車体が跳ね、峠道が生き物のようにうねっていた、と似たようなことを書いています。


彼の地の人々が経験したことの恐ろしさは想像するだけで身がすくむほどであり、今すぐにでも何か手助けをと気もはやるのですが、被災地のはるか遠くからできることは少ないばかりか、焦って行動を起こしても、かえって迷惑でしかない事態も考えられます。

こんな時は義援金としていくばくかのお金を送るのが最も役に立つでしょうし、それも難しいなら、被災地の関連企業のものを買う、支援に入っている食品会社の製品を選ぶなど、身近でできることは意外にありそうです。


そしてもうひとつ、カウンセラーの友人と話していて重要性を認識したのが、自分たちの心を守る術を持つということです。

私を含めた非当事者は、余震に怯えながら断水停電に耐えていたり、慣れない避難所暮らしに疲弊はしていませんが、日々膨大な量の震災関連ニュースに触れ、相当の恐怖心やストレスが蓄積しているのは確かです。

人間の心はやわらかく脆いもののため、人の痛みを感じやすい優しい人ほど、意識して辛いニュースから離れることが大切です。

それは被災地を無視することや、逃げ、弱さではなく、自らの心身を守るための、必要な措置でもあります。


友人いわく、カウンセラーとして、やはりこんな場合も普段のストレス対策と変わらない方法を薦めるそうです。

栄養のある食事をする。睡眠時間を取る。動物と遊んだり動画を見る。ゆっくりとお風呂に入る。散歩に出る。自然に触れる。歌う。踊る。身体を動かす。掃除する。誰かと笑い合う。

こういったものの他、何か自分の好きなこと、それをしていると楽しかったり気分のいいことを積極的に行います。


”こんな時に””大変な人もいるのに”そんな思考は一旦置きます。
自分が辛く不幸せなら別の誰かが救われるというものでもなく、自らの幸福や安穏を守りつつ、各自がその余剰でもって、できる限りのことをするのが何よりです。

日本中が暗く沈み切るより、無事な地域は平常通りの生活を営みながら、経済を回し、支援を止めず、十分な期間、必要な手助けがなされる方が被災地の助けになるでしょうから。


私はといえば、ここ数日『方丈記』を鴨長明の原文と佐藤春夫の訳語で読んでいました。

『方丈記』は、まさしく災害を語る本だからです。
鴨長明が自らの簡素な草庵で綴った文章のうち、かなりの部分が災害に関する話題に割かれています。


平安の都を襲う飢饉、流行り病、大火などに人々が虚しく翻弄される様が書き連ねられ、元暦げんりゃく2年(1185)の大地震については、こんな記述が見られます。

おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし」〈原文〉

世の中には恐ろしいものは他にも幾らもあるのだけれども、地震の大きくて強いの程、恐ろしいものはないものだとつくづく悟る事が出来た次第である」〈佐藤春夫訳〉


あまりに悲惨な体験を重ねたために、とうとう俗世に見切りをつけた鴨長明は山へ入るも、完全な心の平安は得られず呻吟します。

孤独な暮らしに倦みながらもこの世への未練を捨てきれず、山の子どもとの交流や、自然との触れ合いを数少ない慰めとして暮らしつつ、やがてこう悟るのです。

それ三界は、たゞ心一つなり」〈原文〉

この世の中と云うものは心の持ち方一つで苦しい世の中にもなり、楽しい世の中にもなるものである」〈佐藤春夫訳〉

そしてこの期に及んで思い残すことはないと、神仏への帰依を宣言して書は閉じられます。


絶えることのない川の流れ、現れては消える飛沫、夕方にはしぼむ花、地に落ちる定めの露と同じく、人のはかなく変転極まりない運命もまた、いかんともしがたいものです。

けれども、だからこそ生きること、人生は美しいのです。

平安朝の人々が作り上げた優美な文化、類まれなる美意識、身の回りのよしなしごとをいつくしみすくい上げる繊細な感受性は、人間の力の及ばない、猛然たる自然の脅威と背中合わせだからこそ成立したものでもありました。

南洋の激戦地で一輪の野花を心の救いとしたという兵士の心情にも似て、それは明日をもわからぬ不安と己の存在のはかなさを担保とした痛ましいような感覚であり、"もののあはれ”は、命がけで連綿と受け継がれてきた価値観であるとも感じます。


先ほどあげた手記の中で、谷崎潤一郎はこんな一文も書いています。

まことに世間のことは何一つとして意の如くにならないものだが、分けても自分自身のことほど測り難いものはない

人はどんなに悲しい時でもそれと全く反対な嬉しいことや、明るいことや、滑稽なことを考えるものであるように感じる


叔父は電話で罹災体験を笑い話にし、心配する私を逆に励ましました。

別の災害現場でボランティアに入った経験のある人からも、同じような話を聞きました。
皆、大変な中でも冗談を言ってよく笑い、勇気づけられたのは自分の方だったと。


それは人間の裡に内在する、苦難を乗り切り、苦しみに立ち向かって生きる力の結晶のようなものなのかもしれません。

だから私も、苦しみで胸が塞ぐにまかせず、自分で上手に風を通し、誰かに奮えるだけの力を確保しておこうと思います。

これから少しずつ混乱が落ち着けば、出来ることも増えてくるでしょう。
それまでは遠くで見守るよりなく、今ここでは祈ることしか叶わないにしても。



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