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美しく怒る

川沿いの辺鄙へんぴな道に設置された小さなバス停。
周囲には気軽に立ち寄れるようなお店もなく、寒風の中であと三十分はバスの到着を待たねばなりません。
目的地まで歩けば一時間以上かかる上、この辺りの地理には不案内なため、仕方なくその場に立っています。


幸いなのは大学教授の知人が一緒なことで、この人と話していれば気も紛れます。
私たちは公開されたばかりの洋画について意見を述べ合い、その映画のテーマが"怒り"だったため、教授は私に向かって"何に怒りを感じるか"を尋ねました。

「今。今この状況です。なぜこれほど人口の多い都市で、バスがこの本数なのか。なぜこのバス停には屋根も風除けも、ベンチのひとつすらないのか。なぜこんな何もない川沿いの道にバス停を設置したのか。あんまりにも環境が劣悪すぎます!」
私のそんな回答に教授はうなずき、元来が短気な私は、さらにいくつもの怒りポイントを上げて教授の笑いを誘います。


そして今度は私から、同じ質問を教授に投げかけてみました。
教授は黙って私の顔を見、数秒が流れます。

「いや、無い、かなあ」
「無いことはないでしょう」
「でも、最近怒りを感じた記憶がなくて」

だけど、と口にしかけつつ、そういえばこの人が怒ったところを見たことがないことに思い至ります。
理不尽に冷静に対処することはあっても、苛立ったり、激昂している姿は見たおぼえがありません。


また顔を見合わせたまま数秒が過ぎ、教授がおもむろに口を開きました。

「あった。僕は講義でも怒らないんだけど、一度だけ学生を怒鳴りつけた記憶があります」
「何があったんですか」
「ある時の講義前に、教室のすぐ脇で、電子煙草を吸ってる四人組がいたんです。目が合っても平気な顔でしゃべってるし、僕も気にせず教室に入ったんですよ。
そうしたら講義が始まって十分も経ってから、さっきの四人組が前の扉から入って来て。いかにもだるそうに、目の前を横切っていくもんだから」

それはない、という私の言葉に、教授もうなずきます。
「思いつく限りの罵詈雑言をぶつけて、出て行けって怒鳴ってやりました」
「うわ。それで?」
「皆、そりゃもうすごい勢いで飛び出して行ったんだけど、一人だけその場に残って、申し訳ありませんでした、授業を受けさせてください、って言う子がいて。あんまり震えてるもんだから、それなら君は座りなさいって言ってやったんだけど」
「偉いですね、その子」
「ちょっと悪いことしたかなと思いましたしね。四人にはトラウマになっただろうけど、あの態度だけは許せなくて。僕もまだ未熟だったのかもしれませんね」


それはいつ頃の話かと聞くと、教授は思いを巡らせる顔つきになります。
「おそらく、五年ほど前かと」
「五年。ということは、それから怒ったおぼえがないんですか」

はい、と断言する教授を前に、私は深いため息をつきます。最後に怒ったのが五年前など、到底考えられない話です。
「私なんて、日々怒りに満ちあふれてるのに」
思わずもらすと、教授は笑いつつ意外なことを口にしました。
「それは、あなたの方が僕より人間として上等だからですよ」


もしも何か飲んでいたら吹くところだし、椅子に座っていたなら落ちるところです。
些細なことに怒りを感じ、即座に不平不満を並べ立てられる人間が、五年以上何の怒りも持たず生きている人より上等なわけがありません。

かといって教授は揶揄からかいでそんなことを口にするような人でもなく、ここはその真意を確かめる必要がありそうです。


「どうしてそうなるんですか」
いぶかしさと動揺を抑えきれない私に、教授は穏やかな視線を向けます。
「怒らない人は、優しい、良い人だって思いますか?」
「もちろん」
「そういう場合もあるだろうけど、怒らないのは、冷たいから、諦めてるから、どうでもいいから、ってことも多いんですよ。実際に僕がそうだし」


たとえば、と教授は道の向こうを指差しました。
「さっき、遠くに電動キックボードの二人乗りがいたでしょう?」
「いましたね。あの危ない人たち」
「あなたは、あれを見てすごく怒ってましたよね?」
「だって、歩道からいきなり車道に飛び出すし、逆走して反対車線を突っ切って行ったんですよ?危なすぎます」
「そこがあなたと僕の違い。僕は何とも思わなかったから」


ええ?という私の声にいかにも不信感が滲んでいたのか、教授は軽く微笑みます。
「僕も、危ないなとは思いました。とんでもない馬鹿だなとも。でもそれだけで、別に腹は立たない。僕には関係のない人たちだし、そのうち事故を起こして大変な目に遭うだろう、自業自得だと思うだけで。あなたみたいに、なんて危険な、って本気で怒るなんてとんでもない」
「とことん他人事なんですね」
「そうです。何度も言うけど、僕には無関係だから。そういうところに怒れるのはむしろすごいし、あなたの怒りには私欲がない。政治家になればどうかと思いますよ。もし出馬するなら全力で推します」

こう見えてそれなりに知り合いも多いから、組織票は期待できますよ、などと教授は付け加え、たとえ奇跡的に当選しても、半年ほどで飽きて逃亡しそうなのでやめておきます、などと私も答えます。


家族や近しい人の指摘によると、一瞬にして何かに怒りを燃やせるのは私の"特技"らしく、よくもまあそう頻繁に怒れるものだと、常々笑われ呆れられます。

怒りをエネルギーにして生きているのだ、とそのたび私は答えるのですが、あきらめつつ付き合うしかないと考えていた欠点が、長所のごときとらえられ方をするのに驚きました。

けれどよく考えてみると、怒りは避けるべき悪癖である一方、怒らなければならない事柄や場面も確かに存在します。

古今東西の歴史を見ても、正しく用いられた怒りによって、不正が暴かれ、差別が正され、社会が前進した例は数え切れません。
誰かの正当な怒りが世界を変え、人種や身分などの不平等から人を解放するだけでなく、消えかかっている動物や自然が救われるといった事例もしばしばあります。

そういった成果には怒りの効用を感じますし、何らかの変革につながる怒りは、醜悪さより、むしろ力強く美しいものです。
そのような怒りであるなら、臆さず表明されるべきでしょう。


私も、単なる不満屋や血気盛んな人で終わらせないため、たとえば今回の件に本気になるなら、市の交通局あるいは知人の市会議員に、バスの運営事業について意見を届けるのが良さそうです。
もしそれで何らかの動きが起これば、私の怒りも有益なものになり得ますし。

たかが一市民の意見ごときで、改善が図られるはずもない、無駄なことはやめておいた方がいい、といった類の"理性的"な意見は求めていません。

何せ、私は怒っているんですから。



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