見出し画像

差別をなくすという欺瞞

差別は無くならない


※上記見出しが結論のため、相いれないと思った方はブラウザバックをお願い致します。

私は差別を無くすことが現実的とは思わない。
例えば、日本人とアメリカ人がいたとして
あまり英語に自信がなく、日本語は出来ると自認しているならばどちらに道を聞くか。日本人だろう。

この行動を差別だと思う人はあまりいないだろうが、これは立派な差別の芽である。
差別の根源は「差異がある」ことに起因し、そこに「個人の事情、感情」が加わることにより差別行為となる。
感情は片方への嫌悪である他、片方への愛情や信頼の場合もありうる。
故に、差別を無くすことは非現実的だと断じる。

許される差別と許されない差別


典型的な差別といえば人種差別が挙げられるだろう。
黒人だからという理由で結婚や就職を制限される、街中で罵倒されたり、不当に暴力を振るわれる。
このようなことは許されないと、大方の人が考えると思われる。

では、日本において日本人だからという理由で外国人よりも行政サービスを有利に受けることができ、結婚や就職も支障なく出来るとしたならば、それは許されるか?差別ではないか?
もちろん、これも立派な人種差別である。

差別というものは「差をつけ、扱いを別ける」ことを指す。

有利に扱うにしても、不利に扱うにしても、いずれも差別に該当すると解するのが適切である。
※アファーマティブアクションと呼称される、差別を解決するため一部の属性の人を有利に取り扱う取り組みも行われているが、それが更なる差別を生んでいる側面がある。


差別することを解決すべき問題としたならば、なぜ差別が起こるのか(差別の原因)を明確にしなければならない。
まず、事実ベースは「差異がある」ことである。
日本人、アメリカ人、同和地区出身者、男性、女性・・・
色々な境遇、立場の人間がいるため差別の原因である「差異がある」ことは自然なことである。
故に「差異がある」ことに対する操作は不可能と判断したほうがよい。
次に、人の価値観や心のありかたベースである「個人の事情、感情」である。
・日本人とは話したいけど、アメリカ人とは話したくない。
・同和地区出身者に近づくなと親に言われているから近づきたくない。
・男性は嫌いだが、女性は嫌いではない。
さて、「個人の事情、感情」は操作できるだろうか。

思考してみよう。
あなたは差別を許さない。いかなるときも、人の間に優劣などないと信じている正義の人である。

あなたがとても嫌いな人を思い浮かべてほしい。
<とても嫌いな人がいなければ、なんとなく嫌なタイプの人でもよい。
人であり、且つ嫌悪や憎悪等のネガティブな感情を想起させるものであれば
実在する人間ではなく、一定の属性(不細工、遅刻癖のある人、綺麗ごとを言う人など)で構わない。>
次にあなたがとても好きな人を思い浮かべてほしい。
<こちらも、人であり、且つ好意や親近感等のポジティブな感情を想起させるものならばなんでもよい。>

思い浮かべた「嫌な人」と「好きな人」の二人から
「どうしても話したいことがあるから、この後1時間話をしてくれないか」と、同時に連絡が入った。さて、どう対処するか考えてほしい。
ちなみにあなたは差別を許さない。いかなるときも、人の間に優劣などないと信じている正義の人である。

誠に差別を許さないと神に誓った人ならば
先程の問いには「双方に断りを入れる」を選択したはずである。
好きな人だから応じる。あるいは、嫌いな人の話は逆に面白そうだから応じる。このような判断をすることは差別にあたる。

「え!?別に特定の属性の人を差別したわけじゃないのに!?それはただの区別でしょ?」と思われるだろう。
区別と差別に違いがあるなど詭弁にすぎないと私は考えている。
敢えて言わせてもらうならそのような意識の人間が大多数であるから、差別はなくならないのである。

これは区別だからいい。これは差別だからダメ。
それを好悪感情、快か不快か、そのような判断を下した自分を周りはどう評価するか、等で賢しく分けている。
そのように、許される差別と許されない差別を個人の主観で判断しているにも関わらず、「自分は差別に反対している、そこそこ正しい人間である」と自認している人間が大多数である。
そのため、温存されている差別と、解決に向けてアクションが発生している差別がある。
その差はいつ埋めるつもりでいるのか?甚だ疑問である。


「いや差別じゃないでしょ。選ばないといけないから選んだだけ」
その通り。選ばないといけないならば選ぶしかない。
では、何を基準に選んだか?それが問題なのである。
「この人の話ならば聞いてもいい」「この人の話は比較的聞きたくない」
あなたは感情で選別したはずである。
それをするなとは言わない。
しかしなぜ、それが差別にならないと断言できるのか?
「そこに差別が潜んでいる」と思わないのはなぜか?

人の価値観や心のありかたベースである「個人の事情、感情」で断じることは操作出来るとなんとなく考えている人は多いだろう。
しかし、申し訳ないが出来ているとはとても思えない。
仮にそれが出来ているならば、いまだに差別問題が解決されていないことにたいする説明がつかない。

そして、もっと言うならば「差異があること」を踏まえ「個人の事情、感情」に任せて判断しない人というのは、おおよその人が想像する差別しない心の温かい人とは程遠い人物になるだろう。
好悪感情によって態度や扱いを変えない人間というのは、誰のことも好きではないし、誰のことも嫌いではない人間でなければ成立しないからである。
二人の人間どちらかしか助けられないならば、どちらも助けない。
それが、差別しない人である。


差別と共生する


差別は無くすことが出来ない。故に、差別とはいい塩梅で共存していくより他はない。
どこまで差別してよくて、どこから差別してはいけないかは時と場合により、一人一人の価値観にもよる。
答えなどどこにもなく、常に移り変わっていくものとしか言いようがない。
だからこそ、差別問題は難しいのである。

差別を無くそうと考えると、アファーマティブアクションのような「逆差別では?」と指摘されてしまう取り組みが行われ、それが更なる差別を生む温床になる。
差別は無くせないし、我々は常に他人を差別して生きている。
この現実を自覚したほうがよい。

差別問題の正解はどこにもないので、各々常に自問自答しながら行動していくよりほかはない。

特定の人への好意及び嫌悪あるいは無関心。それら全てが差別を引き起こしている。
人の心があるが故に、人は人を差別しているのである。
だから差別は無くならない。無くなるはずがない。
誰だって、好きな物や興味関心があるものには優しくしたいし、優しくする。
逆に嫌いな物やどうでもよいものには優しくしないし、接点を持たないようにする。
差別される人は相対的に後者の感情を抱くものがその環境に多いから、差別されるのである。

差別はただの結果にすぎず、根源は我々人間の心にある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?