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信仰が人を作る

信じるものは救われる
という言葉は有名であるが
私はこの言葉をおおよそ真実だと考えている。

人間は信仰の生き物である

人間は必ず何かを信じて生きている。
「いやいや、俺は何も信じていないよ。」という人もまた
「自分は何も信じていない人間である」と「信じている」
恐らく、このようなのっぺりとした言葉だけではなく
何らかの深い事情、知見、思惑等を以て「私は何も信じない」と信仰している。

何も信じていない人間でも、必ず何かを信じている。
そうでなければ生きられないからだ。
身近な例でいくならば通貨もまた、人の信仰により価値を付与されたものにすぎない。

猛獣に襲われているときは「100万円さしだすから見逃してくれ!」と言っても猛獣に殺されて終わりだろう。
だが、相手が人間ならば「100万円さしだすから見逃してくれ!」と言ったら、場合によっては金と引き換えに見逃してもらえる可能性がある。
なぜか。
人間は通貨の価値を信じているからだ。

通貨と信仰

金を出せば食事にありつける。金を出せば家にも住める。金を出せば服も着れる。冷暖房のついた快適な空間にいられる。風呂に入れる。ぐっすりと眠れる寝具を手に入れられる。
これらは全て、人間によって人間に提供されるものである。熊やライオンやシマウマが人間に提供しているものではない。

人間が人間に対して何かを提供する際に、古より通貨が用いられてきた。
この通貨という物体は、人間社会において所定の量を相手に渡すことにより、その量に応じた物品・サービス・空間等を享受できる。
このような行動は熊やライオンやシマウマには無い。人間特有の生態である。

この通貨という代物は基本的に差し出すことにより通貨以外のもの(物品・サービス・空間等)を受け取れる。
通貨を得るためには人間社会のためになることを行い、通貨以外のものを提供する代わりに通貨を得る。
通貨と通貨以外のものはその時その場で釣り合う量になるよう調整されている。
これが「物価」と呼称されるものである。
通貨の価値は常に一定ではなく、当然通貨以外のものも価値は一定ではない。
これらは人間社会の状況、人々の価値観(何により高い価値を見出すか)等により変動する。

通貨の価値はその社会を構成する集団の「これくらいの通貨ならば、これに釣り合うだけの価値があるであろう」という認識に釣り合うよう変動していく。
通貨の価値は、人々の信仰によって維持されているのである。
恐らく、家族数組程度の集団であるならば通貨等普及せず、物々交換が成り立っていただろう。
だが、集団の構成員が多くなってくると物と物で価値を推し量るよりも通貨を用いた方が効率が良いのである。
通貨は数えられるが、物の価値を数えるのは難しく、公正な取引であることを客観的に証明することが不可能に近い。
なので通貨は人間に「取引のための道具」として人間社会で今も利用されている。

信じれば救われる

人間社会は基本的に「人と人の信頼感」がなければ成立しない。
もしかしたら隣に住んでいる人は自分を殺しに来るかも。
と思っている人しかいなかったら、そもそも国としての体を成さない。
ほどなくして殺し合いが始まり、とても集団生活などできないだろう。

我々がなんやかんやで日々の生活を営めているのも、そうと意識しておらずとも「この国、この社会、近くにいる人々」のことをそれなりに信頼しているからである。
信頼関係を元に「国の支援」が成立し、信頼関係を破壊しようとする者を公正に裁き反省を促すため「法律」がある。
国そのものが、ある意味信仰の対象だとすらいえる。
「この国は大丈夫」「この国で私は生きていける」「この国の人間であることを誇らしく思う」といった、概念として存在する「国」への信仰心が国を国たらしめんとしている。

故に、信じるものは救われるのである。
何か特別に「信じていること」を証明せずとも
隣人を信じ、家族を信じ、国を信じ、己の善性を信じ、ひたむきに生きる。
それが信仰そのものであり、人々の祈りである。

「私は○○を信じている」と言葉にすることが信仰ではない。
例えそのような言葉を一言も発さずとも、私達は社会の一員として真っ当に生きている限り「信じる者」なのである。
そして「信じる者」として人間社会の中で役割を果たし、生涯を全うすることで「人間は必ず救われる」。
なので、信じる者は救われるのである。


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