「天気の子」という名の、新海監督からの手紙

普段こういった作品の感想はTwitterに垂れ流しているのだが、あまりの感動に物凄い文量になったのとネタバレ回避とを理由にnoteへ書く。
前半(「新海作品のメッセージ」まで)はネタバレ無し、後半はネタバレありなので注意。

はじめに

私は新海監督作品の大ファンだ。
とはいえ出会いは2012年の冬だったので、初期の初期から追いかけていたというわけではない。「秒速5センチメートル」に衝撃を受け、過去作を全て鑑賞し、小説を読み、「言の葉の庭」以降はリアルタイムで観られる喜びをかみしめながら映画館へ足を運んだ。
一番気に入っている「秒速5センチメートル」は、コミックスから小説版の派生作まですべて揃えている。
といえば、わかる人には私がどういう人間か解ってしまうだろう。

それゆえに、「君の名は。」を見たときには少しばかり距離を感じた。
新海監督の強さが、個性が、オブラートに包まれている感覚がしたのだ。

映画はとても面白かった。映画館には二度行ったし、サントラも小説も買って読んだ。今までの作品と比べて圧倒的に多くの人に支持されるだろうと思ったし、実際超ヒット作になった。
それでも若干の「遠さ」を、どこかに感じていた。


「天気の子」は、新海監督の最高傑作

最新作「天気の子」。
これは多くの人に受けることを重視した作品なのか、それとも個性を強めた作品なのか。公開直前で気になっているところにこんな記事が流れてきた。

ど真ん中エンターテイメントかつ賛否が分かれる?
期待とも不安とも言えない不思議な感情が残ったまま、私は劇場に向かった。

見終わればそんな感情など消え失せ、代わりに大きな感動が生まれていた。
本当に両立していたのだ。「多くの人に受ける作品」であることと、「個性を強めた作品である」ことが。
新海作品の最高傑作は「天気の子」だと思ったし、おすすめを聞かれれば「天気の子」と答える(主観で言えば「秒速」が好きなのは変わらないけれど)。それくらいの衝撃だった。


新海作品のエンターテイメント性

「君の名は。」で魅せたエンターテイメント性の高さは、「天気の子」でも健在だった。
ギャグありファンサービスあり美少女あり。
これは前作で得た大きなものの1つなのだろう。
「君の名は。」で言えばスマホを使った演出のような、リアルタイムで見るからこそ面白さのわかるものが今作も多かった。

映像と並走する音楽

新海作品を語るうえで、音楽は切っても切り離せない要素だ。

新海監督は音楽と映像を対等にとらえているように感じる。これは過去作品から言えていたことではあるが、今作は特にそれが顕著だった。
ラストシーンなど、曲に合わせて書き起こされているくらいだ。

音楽と映像がお互いの魅力を引き立てあっている作品は、それぞれの魅力を何倍にもすると私は思う。
「天気の子」にも、それに通じるエンターテイメント性を感じた。
ラストシーンの曲であるRADWIMPSの「大丈夫」は、サウンドトラックの中で一番好きな曲になった。


新海作品のメッセージ

ここからは、新海監督の作家性(あるいは個性)の話。

新海監督作品には、過去作から共通するメッセージがある。

一貫して「自分が思うように誰かが自分のことを思ってくれなくても、絶望しないで何とか前に進んでいこう」というメッセージを出しているのです。たとえば恋愛では、好きな相手が自分のことを好きになってくれなければ、まるで「世界が終わった」かのような気持ちになりますが、ぼくは「そうではない」と伝えたいのです。

これだ。
「自分が思うように~」というのは、何も恋愛に限らない。辛いことがあっても、あなたは世界にいていい。前に進み続けていい。あなたも世界を構成している一部なのだから。


新海作品の代名詞となっている美しい風景描写も、「あなたのいる世界はこんなにも美しい」というメッセージが込められている。「君の名は。」も「天気の子」も、根底に流れるメッセージは変わっていないと思う。






~~以下、ラストシーン含むネタバレあり~~





新海作品の「世界」と「セカイ」

新海監督は一貫したメッセージに加えて、「主人公たちの小さな世界」を一貫して描いている。主人公たちの作る世界が大きな流れに引き裂かれてしまうが、それでも前に進んでいく話だ。「ほしのこえ」から「君の名は。」まですべてそうだった(彼女と彼女の猫は…どうだろう…)。

これを書いているときに知ったのだが、小さな世界が大きな世界の流れに影響を及ぼす作品を「セカイ系」と言うらしい。
定義については所説あるようだが、ここではそれに倣って小さな「セカイ」と大きな「世界」とを書き分けてみようと思う。

「天気の子」は、様々な「セカイ」と「世界」の対比がとても鮮やかだった。

・帆高と陽菜の「セカイ」
・須賀の親としての「セカイ」、大人としての「世界」
・夏美がただよっている「セカイ」と「世界」の狭間
・警察という組織の「世界」
・民衆やその他大勢といった集団の「世界」

自分がセカイの中心だと思い込める子供、そんなことはないと理解してしまっている大人。帆高のセカイでは正義でも、須賀の世界では厄介事。警察からすれば非行少年はいい迷惑だ。夏美は時々大人のふりをしたり、時には帆高の手助けをしたり。そんな彼らを群衆が遠巻きに眺めたり嘲笑ったり。

大人の世界と少年少女のセカイ。それらは時に引き裂かれ、時にぶつかりゆるやかに混ざって、交わって、お互いを少しずつ変えていく。

「天気の子」では主人公のセカイと民衆の世界だけでなく、さまざまな人物の世界が描かれている。それは決して明るいばかりの世界ではない。
けれどあなたが生きている世界はこんなところなのだと、全部ひっくるめて私たちに見せつけてくる。
それが「天気の子」の魅力の1つだと、私は思う。

帆高の「世界」と「セカイ」

「世界の描写」に加えてもう1つ、私が新海監督の個性を感じた部分であり、この作品の好きな部分が終盤の流れだ。

物語の終盤、帆高は選択を迫られる。
陽菜を犠牲に世界を元通りにするか、世界が滅ぶ覚悟で陽菜を救うか。
世界か、セカイか。
帆高は陽菜を選び、その結果東京の多くが水に沈んだ。

一度離れ離れになり、自らの選択が招いた結果に悩みつつも、3年後に再開する2人。最後に帆高は言う。

どんなに雨にぬれても、僕たちは生きている。
どんなに世界が変わっても、僕たちは生きていく。
「僕たちは、大丈夫だ」
--------------小説版より

そして流れる「大丈夫」とエンドロール。
それを見ながら私は、「こんな選択があったのか」と驚いた。
「こんな終わり方があったのか」と。

それと同時に、「君の名は。」で感じた距離感が現実感の薄さによるものだと気づいた。
もちろん、「入れ替わり」より「晴れ女」が現実的という話ではない。「世界」と「セカイ」の選択の話だ。

「言の葉の庭」以前では、世界にセカイが引き裂かれながらも前に進むさまが描かれていることが多かった。
それに私はリアリティを見た。
セカイが引き裂かれても、世界にいて大丈夫だと言われている気持ちになった。

対して「君の名は。」では、世界を救ってセカイを取り戻した。
それは本当に美しい世界だったけれど、完全なハッピーエンドに現実感の薄さを感じてしまった。

そこにきて「天気の子」では、世界を引き裂いてでもセカイを選んだ。
加えて「世界はもとから狂っている」とまで言い切った。
私はそこに感動を覚えたのだ。
世界もセカイも不完全で、どこか狂っていたり狂わされたりする。
それでも、あなたがどんな選択をしようとも、そんなあなたのいる世界が美しいのだと言われた気がした。

あなたが大切にするのは何なのか、この作品は問いかけてくる。
けれど、どんな選択をしても、あなたはこの美しい世界にいて大丈夫なのだと言ってくれる。「天気の子」はそんな作品だった。

新海誠の「世界」と「セカイ」

ここまで感想を書いてきて、ふと思ったことがある。
この「世界」と「セカイ」の対比は、新海監督自身のことでもあるのかもしれないということだ。

そして小説版のあとがきまで読んで、ここで感じた感覚はあながち間違っていないのかもしれないと思った。

私は新海監督のことを、圧倒的な技術と文学性で「自らの感じたセカイの一部」を作品にするクリエイターだと思っている。
いわば映画は監督からの「手紙」だ。
自らの信じているメッセージを、「今の世界」に合う絵と言葉で綴られた手紙なのだ。
監督は映画が公開されるまさにその時の「世界」と、監督自身の感じる「セカイ」を混ぜ合わせて表現するのが本当にうまいのだ。
分野は違うが「ものづくり」を行う人間の1人として、私はそのスキルに強く惹かれている。

「君の名は。」が予想を大きく超えた(というと失礼かもしれないが)ヒットとなり、監督へ届く声は良くも悪くも変わるんだろうなと思っていた。
それは案の定だったようで、あとがきでも少しばかり言及されていた。

SNSには膨大なコメントがあふれていた、もちろん楽しんでくれた方も多かったのだろうけれど、激烈に怒ってらっしゃる方もずいぶん目撃した。
--------------小説版あとがきより

多くの人に作ったものを否定されるのは、自らのセカイを否定されるのに近い感覚を受けてしまうような気がする(私なら泣く)。
少なくとも何も感じない訳はないし、影響を受けても全くおかしくない。
そんな中で新海監督は、それらの声を受け止めた上で、自らの世界を曲げずに物語を作ることを選んだ。

そういう経験から明快な答えを得たわけではないけれど、自分なりに心を決めたことがある。「映画は教科書ではない」ということだ。
---中略---
教科書とは違う言葉、批評家とは違う言葉で僕は語ろう。道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。それこそが僕の仕事だし、もしもそれで誰かに叱られるのだとしたら、それはもう仕方がないじゃないか。僕は僕の生の実感を物語にしていくしかないのだ。
--------------小説版あとがきより

あのラストシーンそのものが、監督の「世界」に対する答えなのだ。

「僕たちは、大丈夫だ」
それは監督からのメッセージであり、監督自身へのメッセージでもあるように感じた。
それでいてエンターテイメント性の高さを両立しているところに、心から尊敬の念を抱いた。

洋次郎さんの解説を読んで、改めてその感覚は遠くないものなんだと思った。
「秒速」を初めて見たときには拾い損ねてしまった、監督の想いを今度こそ拾うことができた気がしてとても嬉しくなった。

ついに監督からの手紙を受け取れた気持ちになった。


おわりに

私は、エンタメ作品は「当り障りのないもの」である必要はないと思う。
作者の「個性」が強いほど、賛否は分かれるが面白い。
言ってしまえば私は、新海監督の感じる「世界」が、そして新海作品が昔から持っている「セカイ」が大好きだ。

とはいえ商業作品である以上、ある程度多くの人間に見られるものを追求することは避けられない。
だからこそ、それらを両立させた「天気の子」は傑作だと思うし、この作品をリアルタイムで観れたことが本当に嬉しかった。

クリエイターの方々へ感謝を

最後の最後に、新海監督やRADWIMPSをはじめとするクリエイターの方々に大きな感謝を。
こんな素敵な作品を生んでくれて、本当にありがとうございました。
監督や皆さんの描く新しい世界と、またほんの少しでも交われることを心待ちにしながら、私は私の世界を生きていきます。

ありがとうございます!