「Incunabula」について

最近雨降りと灼熱の寒暖差とかが尋常じゃなくて、俺の体も戸惑ってます。
寝てばかりで、身体にも良くありませんわね。
ピカピカサンライトはどこにあるのだろうか。
気圧に威圧されてついつい酒を飲んでしまう。
気圧で具合悪いのは筋肉や体力ではどうにもならない事が分かったのでもう飲むしか無い。

そんな感じで、昨日もお酒を飲んで身体を壊しながら音楽を聴いていた。
Autechreの「Incunabula」。
初めて聴いた時、本当に買って損したと思ったし、嫌いだった。
音像が購入当時の時点で既に古かったと言うのが一番の原因ではある。
当時の自分はGantz Grafから入ったニワカ新参者だったので、そりゃ思ってたのと違うだろうなとしか思わない。

「Incunabula」。
なんともエキゾチックで古風な響き。
そのアルバムの全容は、まるで一つ一つの機材と丁寧に対峙した結果に思える。
そういう意図しないミニマリズムがまた綺麗だと思う。
今に比べるとそれはシンプルなリズムだけど、音の節々に職人的な創造性を感じる。
限られた機材とトラック数でも音楽は作れるし、目的も成し遂げられる。
そういう面白さもある。

DAWは何の音でも出せるし、どんな事も出来る。
だけど、その根底にはその人間の持つイマジネーションが必要であって、人間が機械に処理を促すという構図がある限り、それは大なり小なり必ず必要となる。

しかし、イマジネーションとリアリティの間には無限に近いと思える程の隔たりがあって、案外絶対に必要と思う物さえもいらなかったり、思いもよらないアプローチが正解に近かったりするもの。
うまいピアノソロも、ギターも、ヴォーカルも、必要といえば必要なのだけど、それが無いと言われたなら、無くても作る方法がある。
「音楽を作る」という事が、自分のように「表現行為」であったなら、その傾向はより強いのかなと思う。
そういう事なら、いっそ全てのアプローチを少しの機材に託してみるというミニマリズムが、今になってようやく面白いと思えるようになったし、だからこそイカしてんなぁとも思うようになった。
(でも昔は色々と逆だったのかもしれない。少しの機材しか持ってなかった、だから考える必要があったみたいな)

「Incunabula」は、そういうミニマルな側面と、アーティスティックな側面を兼ね備えた名作だと今は思う。
色んな事が簡略化して、オーケストラや生歌、果ては存在しない音楽を用いたアプローチが出来ても、結局はそれを「懐柔する」という事が、少なくとも自分には重要なのであって、このアルバムはそれを強く感じさせてくれた。

それはきっと、自分が想像を絶するずっと前からそうだったんだろうし、そう考えると一体どれだけの警句が生まれて、そして死んで来たのだろうと、壮大な妄想をしてしまう。

道具に使われず、道具を使いこなそうとする。
簡単な事ではあり、それは本当に難しいが、でも大事という話。

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