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BE THE SUN 12/4 ナゴヤドーム



光あれ


光があった。
それはもう目が眩むほどの。
ステージから伸びる光の筋。
彼らの輪郭だけが輝きを帯びる。
あの光景はきっと忘れることはないだろう。

太陽になった彼らは私に、夢のような、今までの人生で見たこともないくらい、美しい輝きを見せてくれた。
その輝きのなかには私の手元の光もあった。
太陽になったSeventeenはCARATを照らし、CARATは太陽になったSeventeenを照らした。

眩い照明のなか紙吹雪が舞い、満足そうにカメラを見る彼ら。
ずっとこの光景を見ていたいと思った。
ずっとこの光の中にいてほしいと思った。
この願いは強すぎると彼らにとって呪いになってしまう。
けど、彼らがあのステージに立つことを選び続ける限り、私は願い続け、何度でもあの光の中に立てるようたくさんの愛を届けようと思う。

このドームツアーを終えた時、CARATとしての第一章が終わり第二章になると感じていた。

彼らが放つ光を、彼らが受け取る光を見た。
彼らが注ぐ魂の熱を感じた。
彼らが向ける眼差しを知った。

第二章は始まった。
より上を目指していく彼らとどこまでも一緒に行こうと、彼らがパフォーマンスを届けてくれる限り私は照らし続けようと、誓った。

彼らが愛を届けてくれる限り、私はそれを一身に受け、恩返しとして私も愛を届けよう。
それがきっと何度でも、私たちをあの光の中へ連れて行ってくれる。




正直言うとオーラスはセンターのスタンド。ステージを正面から見ることができて、私のキャパシティは突破し、ほとんど何も思い出せない。
「思い出せない」というより、覚えているけれど目が眩んで、カメラのフラッシュの後のように光だけが記憶として残ってしまった。
そのせいで抽象的な感想しか言葉に残せない。

例えば、2階席だった東京ドームでは分からなかったステージの演出がわかったこと、THE8はずっと楽しそうに朗らかな笑みを浮かべていたこと、ジョンハンさんは会場全てを感じようとする深い深いおおらかさを纏っていたこと、このステージで全てを出し切ってやろうとする13人の気迫、まるで絵に描いたように美しく揃ったパフォーマンス、トロッコに乗りCARATを見るときの優しい眼差し。
全てを見たけれど、思い出せるのはこれくらい。
あとは夢を見たんじゃないかと思うほど、ふわふわと現実味を帯びていない。

なんなら、これが数日前の話だというのも信じられない。もう何年も前のような気がする。ついでに言うとその前の週が東京ドームだったっていうことも信じられない。
それぐらい強い光だったのだろう。

アイドルとファンの関係とは特殊なもので、どれだけ好きという感情を伝えてもいい。
もし相手がアイドルではなかったら押し潰されてしまうほどのものでも。
無数に光るCARAT棒ひとつひとつに、その好きは変換されて、彼らに届くからだ。
それでいいのだと、むしろ、それがいいのだと思った。

その「好き」には人それぞれ中身も重さも違う。けれどみんな等しい光に変換される。
もっと届けたいのに、と思ってしまうかもしれない。それでも、あの光だけは確実に届く。
単純で明解で嘘がない。
その光が途切れることなくずっとずっと彼らの目に映っていてほしい。
その光だけは信じていてほしい。

何度でも思う。
私は出会うべくしてSeventeenに出会った。
私に光を届けてくれてありがとう。
私に光を届けさせてくれてありがとう。
照らし合う相手がSeventeenで私は本当に幸せです。

思い出す日が来ても

きっと私は、いつかこのドームツアーを思い出したとき、記憶が色褪せていることに気づくのだろう。
そして「思い出す」ということは、忘れていたということ。そんなことを詩に残したのは寺山修司だった。

思い出さないでほしいのです
思い出されるためには
忘れられなければならないのが
いやなのです
『思い出さないで』寺山修司


私のドームツアーの記憶がこの詩のように叫ぶ。
きっと私は忘れていく。
忘れていたことに気がついて思い出し、その記憶が色褪せていることに悲しむのだろう。

それは確かに悲しいことだ。
しかし、悲しいことではあるが絶望ではない。
きっとその記憶が色褪せていっても、Seventeenは新たな思い出をもたらしてくれるだろう。
私は今、そう信じられる。

信じる相手がSeventeen、貴方達だから。
きっと貴方達もCARATがそう信じていると信じているだろうから。
すべては憶測でしかないし、貴方達もコミュニティに身を置く1人の人間であるから、「絶対に変わらない」というものはないだろう。
それでも信じられる。

それは貴方達に理想の願いを期待しているのとは少し違う。
もし、異なる選択肢を取ったとしても、それを受け止められるということだ。

だからきっと、私の信じるものは「新たな思い出をもたらしてくれること」ではなくて、「Seventeenの出した答え」なのだと思う。

如何様にも愛2

もうひとつ、ドームツアーを通じて思い出した言葉がある。

愛は、この世に存在する。
きっと、在る。
見つからぬのは、愛の表現である。
その作法である。
『思案の敗北』太宰治


Seventeenと出会うまで、愛や愛することについて私は何を知っていたのだろうか、と思う。
きっと私が知っていたものは、すごくすごく狭い愛だったのだろう。
すごくすごく狭いから、私が見落としていたのか、それとも本当に映っていなかったのか、そんなこともわからなかった。

愛はあると知っていた。
けれど私は、愛はどんな形をしているのか、愛するとき人はどんな行動をするのか、そういった「外に出た愛」をほとんど知らなかった。

けれどSeventeenに出会って、こんなにも愛を表すものは世の中にあり、言葉でも行動でも「愛する」と言わなくとも「愛」を伝えられるのだと感じた。

ドームツアーで次の約束をしてくれたことも、最高のパフォーマンスを見せることも、瞳いっぱいに会場を見つめることも、手を振ることさえも。
あの空間にあったもの、すべて「愛の表現」と言えてしまうような気がした。

なんて幸運なのだろう。
私はもうこんなにも知ることができた。

上書き保存する冬

名古屋ドームが終わり東京で一泊したあと、私は日常に戻ろうとしていた。

私は生きる上でいくつかモットーにしていることがある。
「他人を愛する前にまずは自分を愛せ」
「靴は良いものを履け」
「頑張る時は頑張る、頑張らなくていい時は頑張らない」
「自分の『好き』を信じる」

そして
「楽しむ時は全力で楽しむ」

やると決めたら徹底的にやる、ハイキューの及川さんでいう「叩くなら折れるまで」の精神だ。

だからドームへ向けて後悔のないよう、楽しめるための準備なら全部した。
CARAT棒を入れる袋も縫ったし、ソンムルも作ったし、衣装も納得が行くものを探しまくった。

そうしてドームツアーが終わり荷解きをしている時、底知れぬ喪失感に襲われた。
もちろん、Seventeenは次を約束してくれた。
それでも私にとって初めてだったBE THE SUN は終わってしまった。

次のツアーに行けることになったら、このスーツケースに入っているものの殆どは、新しいものに代わるだろうからきっと使われない。
「初めてSeventeenに会う」というふわふわとした高揚感を抱くこともない。

全部全部、大切なものだった。
失くなるわけではないけれど、上書きをされていく。
それがどうしても悲しくて、泣きじゃくりながら荷解きをした。

次の日の朝、私の住んでいる場所は雪がふった。予報ではそんなこと言っていなかったから私は自転車に乗ってしまっていた。

髪やまつ毛についた雪が、自分の体温で溶けて水になる。その雫で泣いたあとのように視界が濁る。こんな自分の状況に「辛いなぁ」と声に出てしまう。

そんなときふと「あいのちから」を思い出した。

寒い冬が過ぎたら
僕らは知るのでしょう
凍えながらも 咲く心の温もりで
僕らは 強くなる
積もる 積もる 積もる心を集めて
あいのちから
あいのちから SEVENTEEN


この歌詞の冬は今なのかもしれない、と直感した。
また彼らに出会うとき季節はどれくらい巡るのだろうか。
それでも春の暖かさを知った今なら、この曲と共に待つことができる。

「あいのちから」はこの時のためにあったんじゃないかと思うほど、心に深く深く染み渡った。



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