見出し画像

みちのくプロレス50年計画は幻か?

本日のテーマは「みちのく50年計画は幻か?」です
団体を設立時はいろいろな思いがあるだろう。みちのくプロレスは、地方密着をテーマとして活動開始。東北の町や村を巡業して回っていた。会場内にござシートを敷いて観客は、そこに座ってみる。近年は椅子席がありますが、発足当時から暫くは基本ゴザシートでした。料金は3000円を暫くキープしてました。

所属選手はそんなに多くなく大会の試合数は、4~5試合でした。数でなく質であり、十分に満足できる試合内容だったと思います。

1997年7月26日
山形県上山市文化体育文化センター



何気にシリーズ名も個性のある名前が多かったように思える。
1996年の「サスケのオレがナニしたョ?"96」
海援隊DXが台頭して、正規軍、デルフィン軍の三つ巴の戦いになるが、海援隊DXの勢いが強すぎて、正規軍とデルフィン軍が共闘する流れのシリーズ。サスケの名前を使ったシリーズ名はこの時だけと思われます。

このシリーズからスタンプラリーがはじまりました。みちのくプロレスが丁度低迷期に入った所で、私自身も観戦回数が減ってしまい10階達成出来なかったのが残念です。



1998年はサスケが手術の為長期欠場になるのと業績不振の為、みちのくプロレス休業を宣言するが、デルフィンが中心となっている"選手組合"が主権興行を行う事で、それを回避した。選手組合の興行は暫く続きますが、サスケ選手が復活した頃から、だんだんと雲行きが怪しくなってくるのです。やっぱり会社経営は難しいですね。プロレス団体なんて一人選手が抜けただけで、傾きかけると言うこともある。この頃は、海援隊DXのメンバーがWWF(当時)に入ったりして、選手の人数が減り経営も不振になっていた。サスケは夏に復帰するが、その年の年末に青いマスクを被りSASUKE(ヒール)になった。そう言った背景も重なりプライベートなゴタゴタでデルフィンと仲違いして、翌"99年にデルフィン含む五人の選手が退団した。
本題の"みちのくプロレス50年計画"について

プロレスの達人創刊号の記事

このサスケが語った「みちのくアリーナ」を作ると言う話、夢があってとってもいいなぁと思いました。ん?でも50年計画だからまだ継続中だろう(笑) 1996年→50年=2046年と言う事は、あと23年あります。今、アリーナ建設に向けて奮闘中なのかもしれません。私は、それをしっかり見届けたいなぁ。   おわり
















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?