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瓦礫の陰に咲く花

いつかは覚えていないが、かなり昔の話だ。道端に花が咲いていた。張り巡らされた金網に沿うように咲いていて、そこから顔を覗かせていたのだ。その側を通り過ぎていく私はその花と目が合ったように感じられた。その出逢いは偶然だったが、私はその花に引き込まれる感じを得た。私は花に詳しくないので、その花がどういったものかは知らない。だが、とにかくそれに惹かれたのだ。


誰かが育てたわけではないだろう、その花は美しく思えた。近くに同じような植物が見られない中で、特別に存在を誇示するわけでもなく、ただ佇んでいた。その花は朗らかで明るい表情をしているように見えたが、見ようによっては切なく哀しげでもあった。


その花をいま思い出して、私は励まされるような気持ちを得ている。たとえ私が苦しい状況にあったとしても、喜ばしい状況にあったとしても、この花はその命の限り咲き続ける。その花は私や私の感情とは何の関係もない。その花の表情のどこかに焦点を当てて、自分の思いを投影しようとするならば、すでに私の我執も見透かされているみたいだ。しかし、その花はそういった私を咎めるのでなく、どのような思いも達観しているかのような、包み込んでくれているような感じを与えてくれる。その花は超然としているようだが、しかし、しっかりと根を張って生きている。その場所で根を張り生きることを自ら選んだはずではないだろうに、ただ泰然としている。


だが、もしも、と私はいま考えている。もしも、この花の周囲の風景が、あるとき、崩壊して、無惨な状態に陥ったとして、きっとこの花も無事ではいられないだろう。葉はちぎれ、茎は折れて、その美しい顔は地に伏してしまうことだろう。この自由に見える花も決して、周囲から独立しているわけではない。環境において、何らかの影響を受けることは免れない。そうでなくとも、単なる季節の巡りによって枯れてなくなってしまうだろう。現にそうなっているはずだ。私の思い出の中で咲いている花はもう枯れてなくなっているに違いない。


しかし、私はこう思う。たとえ、あらゆる価値が崩壊し、瓦礫が視界を占めたとしても、その瓦礫の陰には、その美しい花が咲いているのではないかと。自分の目に入らないだけで、美しい花は咲いているのだと思う。きっと、どれだけ悲惨な境遇にあっても、花は咲き続ける。私の思いとは関係なく咲き続ける。季節を越えて咲き続ける。


こういった思いも結局のところ、その花へと寄せる私の感情の投影に過ぎない。だが、それと同時に、その花が全くないとも言えないと私は思っている。私の目の前には、その花はない。苦しいとき、つらいときには、私はその花のことを思い浮かべる。私自身もそのようになりたいと憧れの念を寄せている。自分も、人の目に触れようが、触れまいが、立派に咲く花のようになりたい。