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私の主治医(精神科)に父が呼び出された

たらいまわしの末に、ようやく大学病院の心療内科に回してもらってからのことを、またひとつ振り返りたいと思います。

私は当初行くのが嫌だったのか、よく覚えていませんがとにかく初日は母が私に代わってひとりで行きました。

教授か誰か、リーダー的な方がいて、その横に何人かの医師たちがいたそうです。私のことを聞いて、そのなかのひとりが「自分にやらせてほしい」と名乗りでて、それが私の担当医になったのでした。

ロールシャッハ・テストの結果を聞かされた後、この医師から「お母さんを呼んできてくれる?」と言われました。薄暗い、だだっ広い廊下に待ち長椅子があって、そこに母はいました。母が診察室に入っているあいだ、私はそこでじっと待っていました。

後で彼女から聞き知ったのですが、医師は母に「お父様に一度来ていただきたい」と切り出したそうです。

その後、父は母といっしょにこの医師に面談したのだそうです。

彼は当時、ある会社の社長でした。もともとは地元のある上場企業の人間で、その業種においてはかなり変わった経歴とともに認められ、重役間違いなしと周りから言われていましたが、結局三か月だけ取締役会のメンバーとなって、その後関連会社の三代目社長に落ち着きました。経営者を務めるのは、それまでと勝手が違うとたまにこぼしていた覚えがあります。面と向かってそんな話をされたかどうか記憶があいまいですが、母にはそんなことをこぼしていて、それが私の耳にも入っていました。

それはともかく世間的には人生の成功者と見なされていたようです。そういうひとが、平日に、社長の仕事からいったん離れて、我が子の精神異常の原因がお父様にあるのではないかと担当医師より告げられたことは、父には少なからずショックだったと今は思います。

彼はすでに故人です。彼が原因だったとは今でも思っていないし、実際そういうわけではありませんでした。

ただ、医師さんは私との対話のなかで、何か洞察したようです。なぜか父親のことは悪く言わない、目の前にいる狂人の、たどたどしくて少々要領を得ない語りから。

父は亡くなる数日前、母にこう漏らしていたそうです。「自分は、親の後始末の人生だった。自分のやりたいことはなんにもやれなかった」

親、すなわち私の祖父と祖母のことです。

葬式後、母とふたりきりで寝床をしいて、いろいろ話をしました。

嫁入りすると、婿つまり私の父の両親が、いつも違うことを指示するので、いったいどちらに従ったらいいのかわからず、本当に困ってしまった、等。

婿どのは、そういうドメスティックアフェアなことがらからは、とにかく逃げ回っていたそうです。

当時、商屋でした。戦前は豪邸を構え、戦争で丸焼けになったけれど、国の復興とともに商売繁盛し、やがて時代に取り残されていく、そういう商売をしていました。

母が嫁入りした頃は、全盛期をとうに越していたようですが、それでもなお店員を雇って、お店を回してました。

父に母をあてがったのは、父の父つまり私の祖父でした。見合いの席を用意して、順当に話が進んで、それでさっさといっしょになったそうです。

父の祖母が亡くなって、人手不足になったので、嫁を迎えて補おうという、まことに実務的というか実際的な理由から、私の祖父は見合いの席を、私にとって未来の父となる息子に用意したのでした。

父が亡くなって後に、母が私に語ったこうしたいろいろを書き綴ると、面白いですね、何かふわっと浮かんでくる気が今しています。

これは母にも述べたのですが、私の精神異常は、母が嫁入りしてより精神的に参ってしまったこと、さらにはそれが慢性化していったこと、そして子にそれが伝播していったものの結果ではないかと思うのです。

あまりに心が苦しくて、とにかく何か始めないといけないと思い詰めて、整体師養成学校に通っていた頃、そこの校長(「俺は国会議員の秘書を務めていたおかげで世の中の裏はみんな知っている」といつも豪語していました)から「こいつはすぐ葛藤をはじめる」とジョークの種に何度かされました。そう言われても不思議とあまり痛みは感じない、つまりはそういう愛嬌のある方でした。彼は自分を心理学者とも名乗っていました。じきじきの授業のとき、私のことを「こいつはまさに心が葛藤しているわけだよ」とネタにして心理学のイロハ(今思うといったいあれのどこが人間心理の学なのかわけがわかりませんが)を語ったときも、やはり不思議とあまり痛みは感じませんでした。少なくとも悪意はなくて、私を傷つけるつもりはなくて、彼なりに気を使ってくれているのは感じられたから。

かっとう…あの整体学校で、私は自分の履歴の空白については「病院で寝たきりだった」とそっと語って、どういうわけかまわりはそれでもう納得してくれたのは幸いといえば幸いでした。コンクリートの分厚いふたで、すべて封印してしまいたいと思っていたし。

若嫁だった頃の母も、同じように自分の感情を完全封印しようと努めていたのでしょうか。それにしてはその後生まれてきた三人の子どもたち、とりわけ私に、非常に喜怒哀楽の激しい移り変わりを、毎日見せつけていたように思うのですけどね。

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