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ばななさんと私①

キッチンが出版された時に思春期だった私や姉や友達は、吉本ばななさんの本をよく読んでいました。一番読んでいたのは学生の頃で、それから一時的に離れています。最近読み返したいなと思っていたけれど、敢えて読み返す前に感想のようなものを書きたいなと思ってました。

一つに大人の自分が読み返してしまうと、10代の自分が感じていたそのイメージを上書きして消してしまうよな、それともう一つが昔熱心に読んでいてその後ずっと離れていて、その時間の波が記憶を削って余計なものを持っていってしまって、それで残っているもの、そういうのってすごく意味があるような気がするんですよね。だから、いろいろなものが遠いままで感想を書こうかなと思ったわけです。

家路、家、ホーム、そして、心の拠り所
一番言いたいのは、ホームというのは心の拠り所であり、人間はこれを失うと生きていけませんが、しかし、人間は時にこれを失うことがある。そういう心の拠り所を失った人間が再生してゆく場面を描いている。何点かそういう作品があったように思います。
そして、ばななさんが書いている家というのは、物理的なものではないと思うのです。

あなたとわたしが行けばそこは全てが家路である

こんな一文は多分なかったのですが、読み返さずにイメージで書くとこういう文でした。大事なのは家という箱ではなく、一緒に帰る人があなたにいるのかということであり、また、帰るところがあるのかということであり、そして、家とはつまり心の拠り所であるということなのだと思う。

家というのは人と人の間にあるものだと、そういうことではないでしょうか。

家に帰るという非常に普遍的なテーマに考えさせられるわけで、そしてですね、人の人生というのはこの家を一緒に作る人を求めて彷徨うものなのかなと思わないでもないのです。

たとえ一生懸命仕事をして偉くなったとしても、それを共に分かち合える人がいなかったら、きっと人生は虚しい。自分には一緒に家に帰る人がいたけれど、その家に帰る人が親だった場合は、大きくなればその人を失ってしまう。その時に、自分と家路を辿ってくれる人がいるのか。

家路を辿るときに一人ではないということは、非常に大きな意味を持っているのだということを思い知らされた数冊でした。家路という言葉が出てきたのは多分アムリタです。

この家路を自分と一緒にたどる人というのは、とても特別な人で誰でもいいわけじゃない。だから人は一生懸命その相手を探すのではないですかねぇ。

家というそれこそ世界中の人が関わりのあるテーマが実はこんなに深いものでそして捉え難いものだったということなのではないかな。イメージとしては人間が全員関わりあるテーマですから全員がそれを言葉にしようと思ったらできるんだけど、じっくり待たずによくわからないまま言葉にしてしまうのでカチカチのアイスクリームのてっぺんを削ったようになっちゃう。核心まで全然届かないんですよ。

人にとって家ってなんなんでしょうね?
木造あるいは鉄筋等資材でできた住む場所と答えないでくださいね。

2024.05.02
乙女と優等生共著

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