2つの可視化

可視化=人間が直接見ることのできない事象・現象・関係性を見ることのできるものにすること。

文明の発達に伴ってあらゆる分野で可視化が行われてきた。それらが情報となって現代人に押し寄せている。私たちが1日に接する情報量は平安時代の一生分、江戸時代の1年分だそうだ。そもそもたった20年前と比べても10倍くらいになっていることを体感する。山の向こうで起こった出来事やはるか遠い宇宙での出来事、目に見えないミクロなものの挙動、今まさに戦地で暮らしている人の生の声。主にインターネットとSNSによって以前なら知り得なかった情報がどんどん押し寄せる。それはテクノロジーの面から見ると発展である。しかし私はそれが行き過ぎてしまった弊害を感じる機会が増えた。ただこの可視化・情報化の流れは一方通行であろう。逆戻りはあり得ない。ではどうしたらいいのか?それは受け手側が変わるしかないのである。

可視化への疑問を最初に感じたのは2019年の春だった。池袋自動車暴走死傷事故の報道である。当初の報道を聞いた時に「何て悲惨な事故だ…」と感じた。正直に言えば被害者の母子に9割、加害者の飯塚幸三にも1割程度同情した。前者は勿論、瑕疵の無い中で命を落とすこととなった悲劇性である。ただ後者にも「老い」という万人に訪れるそれが加害の原因になる悲劇性を感じた。しかし世の中はそんなバランスにはならなかった。母子の写真が出る。父親が気丈に語る。加害者は良く分からない弁解をする。そして彼は上級国民であった。
年々減っているとは言え、交通事故で亡くなる人は年間3,000人ほどいる。その中には同じような悲惨な事例もあるだろう。しかしこの池袋の事故はニュースバリューがあり過ぎた。大衆の耳目を集める要素がてんこ盛りだったのである。私は直接の当事者で無いので自然とこの報道からはフェードアウトした。飯塚に対しては「重過失」であって「故意」ではないという感情があった。老夫婦がトラブルの際に配偶者を「故意に」殺害してしまう事件の加害者の方が悪いという感覚があった。しかしそんな意見を世に発して無傷で終わる雰囲気では無かった。

この事故が30年前の平成初頭に発生していたら、地域のニュースで数分、新聞の社会面の下の方で数行のニュースだっただろう。テレビの報道を見た家族が「かわいそうだね。気を付けないとね」で終わっていたのである。しかし今はネットとSNSがある。そこに何か書き込みをした時点で「当事者」になる。この事故の当事者は家族や救急を含めても数十人であるはずが、あっという間に数百万人に膨れ上がってしまう。可視化が起こした革命である。悲劇的なニュースへの受け取り方が大きく変質しているのだ。

もう1つの可視化はコロナである。基本的に私はノーガードで良かったのではないかと考える立場である。パンデミックとしては世紀に1回くらいの規模だったのではないか。現代で初めてであっただけで、歴史上では特別な事象では無かった。逆の見方をすると史上最大のインフォデミックであったのは間違いない。半世紀前であれば「何か肺炎で死ぬ人が多くないか?」で終わっただろうし、1世紀後であればウイルスに対して終息させる大きな武器を人類は手にしているような気がする。その狭間のタイミングだったことがおかしな対応に繋がってしまった。

2020年初頭に新型コロナが始まって以降、どこか1か所を修正できるとしたら私はスパコンの富岳による飛沫の広がりのCGが流れた時間に戻りたい。あの映像が流れた瞬間に「コロナ後」が2019年以前に戻る可能性を失ってしまった。医療従事者や飲食業に従事する人たちが勤務中にマスクを外せる可能性。肩がぶつかるくらいの小さな卓を囲む飲み会も、将来に渡って何千万件と無くなっただろう。若年層で結婚する人は1割くらい減ったのではないか。当然、将来生まれてくる子どもは数十万人失われただろう。「人間は口から常に汚いものを吐いている」が可視化されたからである。あれを見てただでさえ潔癖な傾向があった日本人は他者との接触を避けるだろう。あの映像がメディアに乗ったのは明治維新や太平洋戦争敗戦と同じくらいのインパクトがあった。西浦教授が最大42万人が亡くなるといった疾病での死者は2年余りで3万人で済んでいるが、将来に渡っての失われた命と言う意味で同じくらいの数字になりそうなのが皮肉である。

今、世の中で起きている多くの変化や問題が可視化によって発生している。そこをテーマに時々綴っていく予定だ。



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