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【小説】コーベ・イン・ブルー No.1

    

 寒風をまとい人ひとり通れる、急な階段を服部海人(はっとりかいと)は飛びこむように駈け降りる。がたぴしと鳴る木の扉をこじ開ける。一瞥で見渡せる穴ぐらに近い店内。どきついスポットライトにおあつらえむきのダミ声が耳につく。カラオケマイクにかじりついたハゲ頭が目にとまる。

 派手派手しい着物姿の英美子が、ハゲ頭のわきにはべっている。リカちゃん人形と相似形の顔立ちに濃い化粧をほどこし、ひとつに結い上げたクセのある栗色の髪に赤い櫛をさしている。

 息子としては、「ちんどん屋のビラくばり」か、フライ級の「マダム・バタフライ」とでも母親をたとえればいいのか……。
 海人は頭を横にふり、カウンター前にいる大男に手をあげる。
 「ハイ・ロイ」
 ひげ面が目顔でうなずく。横並びの一見(いちげん)サンが、うさん臭げにふたりを見やる。

 海人はやや照れ気味に、「ホワッツ・ザ・ニュース?」
 ロイは眠気の残ったような腫れぼったい目つきで、セーラム・ライトをふかすばかり。
 ニュースはないらしい。年号が昭和から平成に変わり、四月から3%の消費税がはじまると言ったところで、アメリカ人のロイにはなんの関心もない。彼の最大の関心事は、乗船命令がいつくるかだけだ。

 海人はもう一度、英語で、「ヒマそうな顔してるな」
「スタンバイのかかったボースン(水夫長)ほどじゃない」
 出港まぎわのボースンは殺気立つほど忙しい。セーラー(水夫)のロイは知っていて、ぶっきらぼうな軽口をたたく。

 英美子が海人に気づく。ふた組しかない一方の騒がしいテーブル席から、ゆっくりと腰をあげる。履き物の脱げそうな、危なっかしい足どりでこっちへやってくる。もう一方のテーブル席の客に笑顔をふきまきながら、唯一の暖房器具である温風ヒーターに着物の裾が触れないようにしつつ。

 十人も座れば、満杯になる手狭な店だが、神戸の表玄関の三ノ宮に近いこと、人目につきにくい裏通りに面したビルの地下にあること、男たちの欲望を充たす猥雑な界隈であることが幸いし、週末になるとさまざまな職種の男たちで賑わう。

「どこへ雲がくれしてたン」
 舌が短いように聞こえる、甘ったるい英美子の声に、カウンター前の客だけでなく、テーブル席の客までが英美子と海人をのぞき見る。海人の鼻の穴はしぜんにひろがる。

「ホカに着るもんはないんかッ」海人は、コーベ語に切り替える。 
ひとつ向こうの一見サンが目をむく。
「ふふん」 
 英美子は鼻の頭にしわをよせる。キンキラキンのたもとを胸に抱き、くるっと一回転してみせる。小顔の、すらりと背の高い姿かたちにダイヤ柄のあざとい着物はしっくりしない。国籍不明をきわ立たせ、見せ物ふうでうす気味わるい。
「仮装行列とまちがわれるぞ」
 港町・神戸にエトランゼ(紅毛碧眼)はめずらしくない。細長い街並に違和感なくとけこむ。それでも、ラムネ色の瞳が金襴どんすをまとうと人目をひく。

「いっつも、いっつも羞かしげがないッ」
 なぜか目立ちたがる。センター街のど真ン中さえ、同じ色つき目の海人を従えて、そぞろ歩きたがる。
「何日もなしのつぶてやねんもン。ケーサツに捜索願い、出そうかと思たわ」
「ケーサツか、笑わせるな」
 英美子が顔を寄せる、唇が触れそうなほど。
「そこはかと臭うわ」
「いちいちうるさいなァ」
 英美子はクスリと笑う。そっぽを向く海人のうなじにいきなり爪を立てる。
「だしぬけに何ンすんねん!」
「ふやけてるかんじ。女の子といっしょやったのン?」
 まる五日間、勤務先を無断欠勤し、ラジウム温泉に浸っていたのだ。多少、臭ったり、ふやけたりする。
「女の子なんて退屈なだけや」
 どの女も二度目には鼻につく。こめかみが痛くなる。とくに、体をくねって恥ずかしがる若い娘は願いさげだ。
「おかしな子。ふらふら出歩くくせに女の子ひとり、連れてけぇへん」
「連れてきて、どないすんねん」
「見てみたいねン。カイちゃんのいっぱいモテるとこ」と、英美子は小さい口をすぼめる。「ええ顔に産んでも何ンもならへん」
「カサノバやあるまいし、カズをこなしゃええいうもんでもない」
 言ったあと、自分でもカサノバより始末がわるいとふいにしらける。冒険はおろか恋のやまいにもかからず、物欲しげにバーの止まり木たむろする女たちとヒマつぶしに時たまつきあう――。

「カスバいうて外国とちゃうのン?」と、英美子はたずねる。
「カスバやなんて、いつ言うたッ」
「けど、まあ、そこら辺のブスにカイちゃんをかすめ獲られるよりも、まだしも、ムシおさえになるかもしれへんわ」
 こぼれ落ちそうな目玉が海人を見つめる。
「しょうもない」
 海人は体の向きを変える。ひげ面の顔色をうかがう。今夜のロイは、日頃の無口をあらたに気づかせるほど黙りこくる。彼にひと言の挨拶もなく、家を留守にしたので気をわるくしたのか?

「ビールでも注いでくれよ」と、海人はカウンターの中に入った英美子にたのむ。「ロイにも――」
「さきおととい、やったしらン」
 英美子は小首をかしげる。
「ロイに乗船命令がきたみたい」
「なんで肝心な話を後回しにすんねん! それはないやろ。本国のアメリカからでないと乗船できん申し合わせのはずや」
 クビになっていなければの話だが、船会社の代理店(エージェント)に雇われている海人はいぶかしむ。
「うちに言うても知らんわ」
 英美子はあっけらかんと言う、的はずれの質問だとでもいうように。
 海人は舌を鳴らす。本人に訊くほうが手っ取りばやい。
「またボロ船に乗るのか」
「ふむ……」

 ロイが口重く話すには、彼の下船時の理由と似たり寄ったりの不測の事態が本船の船員に生じたらしい。航海中の船舶に怪我人や病人が出ると、次の寄港地で、交替要員が乗りこむ手筈に各国とも取り決めている。ロイは三日以内に神戸港に停泊している、横浜経由のアメリカ船に乗船しなくてはならない。

「足の調子はいいのか」と海人。
 ロイはしぶしぶ、「カリフォルニアまででも歩けるさ」

 昨年末、甲板(デッキ)での作業中に右足を骨折したロイは手術をうけるために急遽、神戸港で下船した。知り合って間もなかったが、たまたま船内ドクターに伝え聞いた海人は海岸通りの総合病院に入院中の彼を見舞った。海人と同じ年頃のロイからは、意地わるい好奇心や勿体ぶったお体裁をみじんも感じなかった。手ぶらの見舞いなのにロイは大喜びし、ギブスで固めた右足を松葉杖で支えながら、恵美子の店までついてきた。

「おりいって相談があるねんわ」
 英美子が海人に耳打ちする。
「ロイのことなんやけど、ちょうどええおりやさかい、はっきりしときたいねン」
 海人は聞き流す。
「お・ね・が・い」と、英美子は手を合わす。
 またぞろはじまったかと思う。これがイヤで数日、家を空けたのだ。はじめは手放しなのだ。それが峠ともいうべき、ふた月を過ぎると、何やかや愚痴りだす。オトコと見ると、見境いなしに喉を鳴らすかわり、冷めるのもはやい。夏場のミンミン蝉に似て、ひとしきり鳴くと、次の季節を待たず脱け殻になる。海人が物心ついた頃から、その繰り返しだった。

「カイちゃんのせいやねんもン。急におらんようになったりするねんもン」
「関係あるかッ」
「言葉がモヒトツ……」
「あの時はモンダイないんやろ」
「カイちゃん、やいてるのン」
「あほくさい!」
 ロイが休暇をのばし、英美子と海人の暮らすあばら屋にわがもの顔で居つくようになってからというもの、早晩、この日のくることは予測できた。サンキューよりほかに英語を知らない四十女と、口下手が取り柄のような年若い異人とでは感情の機微が伝わりにくい。心がすれ違う。

「ママッ、ママッ」テーブル席のハゲ頭が内輪話に割りこむ。「はよ、こっちゃへ来て唄わんかいな。商売気のない女やな」
 海人はそ知らぬ顔で訊く。「はじめて見る顔やな」
「お客さんの紹介で、きはってン」
「ナニ屋や」
「宝石屋さん、おミセもぎょうさん、持ってはるねんて」
「へぇ、商売に似おうた頭してるな。よう磨いてある」
 英美子はたもとで口をおおう。
「そこで何をブツブツしゃべってんねんなッ」
 ツルっぱげでも声が大きければ、英美子を独り占めできると、ひとり合点しているフシがモロに見える。
「ガイジン同士やと思うて、お高うとまってると、去(い)んでまうぞ」
 がらがら声が四方にひびく。

 とび色の目をきつくし、出ッ尻を浮かすロイのスニーカーを、海人のローファーがかるく踏む。白人の男に出ッ尻は多い。同様に、日本語に堪能でなくても〝ガイジン〟という野次を知らない外国人はめったにいない。
 英美子はまんざらでもない口ぶりで、「好かんタコ」と言って海人の膝がしらをちょっと押し、〝毛なし〟の待ちわびる席に千鳥足をはこぶ。

 居ても立ってもいられないようすのハゲ頭は、のっぺぼうになるまで目を細め、英美子のか細い肩に短い腕をめいっぱい伸ばす。
 扁平な顔つきの小柄な男に、海人は、「地獄に堕ちろ、スケベじじい」と口の中で吐く。
 頭のてっぺんに毛が二、三本立っている脂ぎった顔面からは熱湯の湯気が沸き立っている。

 ひげもじゃの仏頂面が近づく。
「小さいやつほどしつこいんだぜ」
 海人は自分の胸に手を当てて考える。ひと月ほど、セックスに縁がない。さして痛痒を感じない。ノッポは淡泊なのか? 用不用説でいうところの、ひんぱんに使用しないものは退化するのか?

「――」ロイがまた、何か言う。
 ハゲ頭の、調子っぱずれの軍歌が耳障りだ。聴覚をしばりつけても、ロイの声が聞きとれない。
 海人は隣に肩を寄せ、「図体のばかでかいおまえはどうなんだよ。ヤらなくて平気なのか」
 ロイは固く口をつぐむ。愚問を発するなという表情がありあり――。
 背丈とかかわりないジョークだったらしい。手狭な店内が一層、息苦しく感じる。

    

「何から、はじめればよろしいでしょうか」
 兵庫県警東雲(しののめ)署の交番勤務に就いた柳沼深雪(やぎぬまみゆき)は、極度の緊張状態にあった。六カ月間の警察学校を卒業し、赴任前日にひき逃げ事故に遭い、三カ月間の入院生活ののち二カ月間のリハビリ訓練を余儀なくされた。
 完治していなかったが、一日でも早く勤務に就きたかった。

「トイレでやりやがったからなァ」
 年下だが、交番勤務では先輩格の小堺佑介がおもむろに口を開く。
「きのう、一応、掃除したんやが、そこら中に飛び散ってるからなァ。使う気になれん」
「何が――」と言いかけ口をつぐむ。

 拳銃で頭部を撃ちぬいたと、大学の先輩・長谷川千賀から耳にした。前任者の自殺事件があり、不穏な滑りだしとなる。

 小堺は、深雪の顔を凝視する。清掃をやりなおせと言いたいらしい。非番だった彼は急遽、二十四時間勤務に駆り出され、いらだちが頂点に達しているようだ。

 深雪は不動の姿勢で敬礼し、「再度、検分いたします」
「アンタは大卒の女やから、ヒキがあったら早ばやと県警本部へ引き上げてもらえる。目と鼻の先の所轄の刑事課にも移動できる。どっちみちおれらノンキャリとは雲泥の差や」
 国家公務員試験Ⅰ種・Ⅱ種の試験に合格していない四大卒は、高卒者の扱いとほぼ変わらない。
「女は、緑の制服きて、駐禁のステッカー貼ってたらええんじゃ。ほんでさっさと嫁に行け。ここらはな、お嬢ちゃんの務まる地区とちがうんじゃ」
「私はキャリアではありません」と深雪は声に出す。「警察官になりたくて県の採用試験を受けました」
「おれはアンタの倍、一年間(現在は10カ月)も警察学校で毎日、ビンタくろうたんや」
 小堺は睡眠不足もあってか、黙っていられないらしい。スチール製の事務机を手のひらでバンバンたたく。椅子の脚もついでに蹴飛ばす。爪先の痛みが脳天までひびいたのか、「アタタタ……」と騒がしい。

 国道沿いの東雲署に歩いて数分の距離にある交番所は、公園の北の端にある公衆トイレと背中合わせにある。人通りの少ない通りに面しているので蛍光灯の白い光に夜通しさらされると、神経を病む。
 三交替制で、夜勤者と日勤の二名で勤務にあたるが、一人は、見回りに出ることが多い。しかし小堺は電話が鳴っても気にとめない。深雪が受話器に手をのばすと、眉間にしわを刻む。
 電話は二台あり、所轄の地域課・通信室からの連絡と地域住人への問い合わせに分けられる。
「ここらは、ヤクザがフツーにおるんじゃ。少々のことは、連中が仕切りよる。この地区で起きることぜんぶにかかずりおうたら身がもたん.やめるならいまのうちやぞ」

 同じゼミ生だった一年先輩の長谷川千賀は、港島署の生活安全課で刑事をしている。深雪は、彼女にあこがれて警察官になった。短期間の交番勤務で刑事に昇進した彼女はよほど嬉しかったのか、グレーのスーツ姿で大学を訪れた。女性刑事なんて、テレビドラマの話だと思っていた深雪は思わず見とれた。

「ボーッとすンなや!」と怒鳴られ、裏口ドアから公衆トイレに急ぐ。
 交番勤務は苛酷だと、警察学校の寮で耳にしたが、修習生よりマシだろうと思っていた。希望的観測と現実とは違いすぎた。初日から小堺に教わることに不安をおぼえる。女だからと、彼は容赦しない。前任者の自死した男性も大卒ではじめての交番勤務だったと聞く。小堺の言動が多少なりとも影響したのか――。

 負けるなと自分自身に言いきかす。

 深雪は、父親や亡き母親に暴力をふるわれた記憶がない。学校の教師にもない。警察学校では些細なミスで怒鳴られる。逮捕術訓練では、面と胴を着け、両手にグローブをはめて修習生同士で二人一組となり、殴りあう。
 小柄で骨細の深雪はなんども大の字に倒れた。そのつど、自ら命を絶った母親を思い出し、歯をくいしばった。
 あきらかにしたいことが、なんとしてもあった。三ノ宮の繁華街に近く、水商売にかかわる住人が多く住む、この地区の交番を第一希望したのは、個人的な事情があった。

 黄色い規制線がはられ、使用禁止のうす暗い公衆トイレは、臭気で立ち眩みがする。鼻をつまみ、日中だが懐中電灯で点検する。
 小便用の便器に異常はない。ドアで仕切られた和式の便器の窓や、落書きだらけの壁、水びたしのコンクリートの床に、米粒大の染みが点々とあった。
 便器にまたがった姿勢で、こめかみに銃口を当て、引き金を引いたのだろう。
 水ぶきした雑巾の後が、至る所に残っている。臭いも――。
 強力な洗剤でないと、落ちそうにない。
 そのことを、小堺に告げると、「その金、だれが出すんじゃッ」と一喝される。
 自分が出すと言えば、小堺はさらに怒り狂うだろう。
「ドライバーを貸していただけますか」
「おまえの目の前の抽き出しに入っとる」
 小さなドライバーを持って、トイレにもどる。
「壁を傷つけたら、承知せんからな」

 固まった染みをひとつずつ落とす。濡れた雑巾をかたく絞って拭きとる。手がかじかむ。
 当て逃げをされた箇所が背中だったので、今も腰痛に苦しむ深雪は、かがむと、鈍痛が走る。なんども背伸びをし、根気づよく染みと戦った、昼食ぬきで。
 小堺が夜勤者との交替時間まで格闘するしかない。勤務初日の深雪は日勤だが、交替の夜勤者が小堺のようなタイプだと、深夜までかかるかもしれない。

「おい、揉め事や。そこはええから、そっちへ行け」と、小堺は公衆トイレに這いつくばる深雪に命じる。
 もうすぐ五時になる。五時半で退所していいはずだが……。
「ここからそう遠くない」と言われ、防寒着なしで自転車にまたがるが、腰にぶら下げた装備品の手錠や特殊警棒が重く、スムーズにはしれない。
 表通りといっても、密集する一帯を区分するために敷かれているわけではなく、先に建物が建ち、あとから道がつけられたのだろう。まっすぐな道路はほぼない。
  同じ神戸といっても、郊外の住宅地で育った深雪はあやしげな男たちが徘徊する公園や街路を目にするのははじめてだった。近隣の地理にも明るくない。地図を片手に、110番通報のあったアパートを探したが、入り組んだ家並みはまるで迷路のようだった。
 安普請の木造住宅の軒が向かいの家や隣家とかさなり、視界を塞いでいる。路地の真ん中をつらぬく排水溝のふたの板きれは、朽ちていまにも踏みぬきそうだ。
 廃屋のような家々の隙間を自転車を押して歩きまわる。目当てのアパートは探さなくとも、怒鳴り声でわかった。男女の痴話げんかのようだ。
 女の悲鳴で、なぜか緊張がとけた。母の悲鳴に似ていた。絶望と諦めの入り混じった泣き声だ。

    

 店のはねたあと――。
「すっかり使い果たした」黄色いラベルのカティサーク片手に、ロイが愚痴る。
「励みすぎたのか?」海人は片目をつぶって見せる。
「これっきりなんだ」
 ロイは千円札より小さい札びらを数枚、くたびれたジーンズのでか尻から出し、フトコロが心もとないと訴える。
 吐く息が酒臭い。海人は押し黙る。
 ロイは上目遣いになり、重い口をひらく。「エンをすこし都合してもらいたい」
 テーブル上のドル紙幣と向かいに座るロイを、海人は交互に見る。乗船まぎわになって、ドルからエンに両替(エクスチェンジ)してどうする気なのか?

「なんて言うてるのン」英美子が背をかがめて、海人の肩ごしにささやく。
「今夜にも――」と、ロイは広い肩をすくめる。
「中突堤のホテルに部屋を予約(リザーブ)するのか?」
「ジャパニーズ・エンが要るんだ」
 あのホテルはドルが通用すると、海人は口に出しかける。

 英美子が鼻にぬける声で口をはさむ。「おカネなんて要らへんから、おしまいにしたい言うといてね。後腐れがないようにたのむわ」
 海人はロイにほほ笑みかけ、首をねじり、後ろに立っている英美子に、「縁切り話くらい自分でするもんや」と小声で言う。
 英美子は海人の隣の椅子に腰を落ち着けると、髪にさした赤い櫛をぬき、それで背中を掻きはじめる。ロイには目もくれない。

「この店で使った金の一部でいい」ロイは海人をにらむ。「払いもどしてほしい」
 海人はおうむ返しに訊く。「ペイ・バック?」
「十万でいい、いや二十だ」
 お安いご用だとは言いかねた。バックマージンじゃあるまいし、盗んだわけでもない、はした金は返しようがない。

 得意の皮肉を考えつく前に、英美子が横から、「ロイは気ィのあかんとこがあるみたいやから、えげつない言い方せんといてね」
 海人は肩をすくめ、手のひらを上に向ける。
 ひげ面が引きつる。「モトまで獲ろうと言ってるんじゃないぜ」
「持ち合わせがない」と、海人はしらっばくれる。
「ホワイ!?」ロイの声は怒りをふくんでいた。「若くない女にサービスした精力はカネに換算することに考え直したんだ」
 海人の知らないロイのしたたかな側面にめんくらい、腹立ちが英単語に変換しない。
 ロイはすごむ。「わるく思うなよ。おれは、カイを見習ったんだ。おまえが中年女を漁るときのヤリ口を、エミコに手まねでバラそうか」
 トーク・イン・フィンガー、日本語で聴くより直截で容赦ない。

 ヤンキーボーイを見損なった。気の利かない愚図だが、気のいいヤツだと思っていた。ロイと英美子の間柄が長びくとは夢にも思わなかったが、金銭のからんだ結末も予想しなかった。

 英美子がテーブルに手をのばす。「せっかくやから、このおカネ、もろとこかしらン。プレゼントのかわりなンやわ」
 海人はとっさに、折れそうな手首を押さえる。「値打ちのないドルなんかもろてもしょうない」
 化けの皮のはがれたロイの言い草を、男から金品を巻き上げ馴れている英美子に言い聞かせても理解しない。腫れ物をいじって、かえって悪化させる。蝶々さんの魅力も、いよいよ土俵ぎわらしい。
 ――仕方がない。
「五万までなら、なんとかする」
「ノー!」と、大声で言った。そして、「ケチるなよ」とロイはつけ足した。
「五万が限度額だ。乗船すれば、ポーカーでもやらないかぎり、カネはかからない」海人は固い表情で静かに言った。
 英美子がロイに向かって言う。「アイアムソーリ」
 何かに憑かれたようなロイの表情がやわらぐ。のばし放題のひげ面をぼりぼりかく。
「オーケー。いま、ここで支払ってくれるのか? エンでもドルでもかまわない」と、いつものロイの口調にもどる。
「出港までに、カネはかならず届ける」海人は声を低める。「きっかり三分でここを出てけ!」
 ロイは目のふちを赤くする。紙くずを拾うように、くすんだ紙きれをかき集めると、木の椅子を立って行った。片足をほんのわずかだが引きずりながら。

「いややわぁ、黙ったまンま」英美子はまたたきを繰り返し、「きっと気恥ずかしいのやわ。かまへんのに」と、ロイの背に言った。
 移り気で自惚れの強いぶん、血の巡りのわるい、ずさんな性分の女だと諦めていたが薄情になりきれないぶん、まだ許せる。
「難題はカタづいたと――」
 海人はカウンターの中に入り、手近にあったボルドーワインを引き寄せる。近頃のワインブームでオーダーする客がたまにいる。ビンは本物だが、中身は国産の安物。酔っ払った客は、「ボルドーはひと味ちがう」とのたまう。海人は丈の高いグラスに国産の赤ワインをそそぎ、宙にかざす。血の色を思い出す。

「ほっとしたわ。胸のつかえが降りたわ。カイちゃんが上手に話してくれたから揉めへんかってんわ」
 英美子は上機嫌でほほ笑む。生きるの、死ぬのと、醜態をさらしたむかしの男の誰かれを思い浮かべているのだ。肌の色ツヤは失せても、蝶々さんの思い出は老けない。

 海人は独りごちる。「どこの馬の骨かわからん、宿なしの毛むくじゃらに、ええようにコケにされたなァ」
 いったん、かざしたグラスを下におく。世はすべて事もなしと思いたい。
「なんか言うた?」と、英美子は目尻をさげる。
「なんもない」
 海人自身、素性はさだかではない。GIとストリート・ガールのあいだに生をうけた母の英美子もしかり。

「ほんまのこと、カイちゃんを産んどいてよかったわ」英美子は帯じめをゆるめる。「ひとりぼっちではどうにもならへんもン」
 聞き飽きたセリフだった。おかげで、父親の顔はおろか、名さえ知らされずに今日まできた。〝ハットリ〟なんていう、忍者一族まがいの苗字の由来についてもそうだ。問いただす前に、英美子は言い逃れる。海人の知っている自分たち親子の過去と言えば、彼が英美子の十七の時の子供だということくらい。

「カイちゃんは、うちだけのもんやねんもン。尽くしてね」
 放浪癖のある犬に首輪をつけるていどの手間で、英美子は海人を手なづける。
「ひと間のアパートでも借りよかなぁ」
「なんでよ、また」と、英美子は空とぼける。
「男出入りの後始末に嫌気がさした」」
「そんなン」と、英美子は身をもむ。「承知せぇへん」
「承知してもらうトシでもない」
「クルマ返してもらうしぃ」英美子は腰ひもをほどきにかかる。「ああ、しんど。もっと気ラクに着れる着物はないんかしらン」
「クルマは慰謝料にもろとく」
 息子であるという事実だけで、こうむった被害は甚大。げんに今夜もそうだ。ロイに支払う金をなんとかしなくては――。その日暮らしの親子に余分な金はない。

「うちがどうなってもかまへんのン」
 うす緑のおおきな瞳がうっすらと潤む。
「共棲みのスペアなら、すぐ次が見つかる」
「イヤン、イヤン」
 襦袢一枚になっ英美子はカウンターの中へもぐりこむと、背伸びをし、海人の首にしがみつく。襟元がはだける。白い肌の胸のそこかしこに散らばるソバカスがのぞく。

「カイちゃんに見棄てられたら、うち、死ぬしい」
 ルージュのはげた下唇を突きだした、仇っぽい顔つきで聞き入れない。
「男がいらんようになったら――」と、海人はなだめる。「また、いっしょに暮らしたらええやないか。その時分には、酔うた勢いで、おれの寝込みを襲うやなんてふざけたマネもせんようになるやろ」
温風ヒーターを消し忘れないよう、海人は恵美子を腕をはらいのけ、カウンターの外へーー。

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