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【小説】コーベ・イン・ブルー No.2

    4

 午後五時半、すでに日は暮れている。
 階下に二世帯、階上に二世帯。錆びた鉄の階段を見上げる。
 笑い声や怒鳴り声にまじって、テレビの音や煮炊きをする音が騒がしい。

 交番裏の公衆トイレと似通った悪臭が、路地奥に建つアパート周辺にも漂っている。水洗トイレ用の下水管が、いまだに布設されていない地区だと聞いていた。バキュームカーで汚物は吸い上げても、生活用排水はそのまま、溝に流れこんでいるのだろう。
 懐中電灯がなくては、足元や通路の状況がはっきりしない。
 汚水が溢れて、未舗装の道はぬかるんでいる。 
 柳沼深雪は支給品の編上靴を汚さないように踵をあげる。
 警察手帳に必要事項はメモったが、目の前の建物に、アパート名を示すものが見当らない。
 自転車を停めるスペースもない。
 狭い路地にもかかわらず、プロパン・ガスのボンベが至るところにあるせいだ。密集する建物のどれひとつとっても、築年数を推量できない。

 気づくと、袋小路にいた。

 アパートの住人のものだと思われる自転車と並べて停めおく。
 警官の気配を察知したかのように階下の二軒と階上の一軒の灯りが消え、話し声と生活音がとだえる。
 深雪は、物音の消えたアパートの外階段の手すりを持ち、一段ずつのぼる。
 階上の通路に一ヶ所、笠つきの電球がともっている。
 手前の部屋には、表札らしきものがある。
「石垣」とある。
 悲痛な叫び声を発した女性が、この部屋の住人だと断定できない。
 直感にすぎない。
 アパートを囲むようにひしめき合う建物のどこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえる。
 深雪は汗ばむ手でドアをノックする。
 反応がない。
 このまま帰るべきだと、心の声が言う。
 いきなりドアが外にむかって開いた。

 額が狭く眼窩が異様に凹んだ坊主頭の男が、目の前に立った。
「なんの用や」と、160センチ足らずの男は言った。
 厚手のセーターに作業ズボン。セーターの袖口にのぞく金色の腕時計に目が止まる。カニカマボコのような太さの指輪が中指に光っている。
「ナニ黙っとんじゃ、ワレ」
 男は部屋の様子が、深雪から見えないように立ちふさがる。
「110番通報があったと聞きましたので……」
 深雪は息を吸いこむ。
「こちらは、吾妻通り四丁目の三笠アパートでしょうか」
「又聞きで、きよったんか。どもならんな」
 たしかに、じかに通報をうけたわけではない。
「下の交番からきたんか」
「はい」
「ぽっと出の新人か」
「……」
「帽子よりこんまい顔やな。体格もようないし、殴られたらぶっとぶな。わしとかわらん背丈の警官、はじめて見たデ」
「奥様はご在宅ですか」
「ナニ寝呆けたことぬかしとんじゃ!」
「夜勤者ではありませんので、いまのところ寝呆けておりません」
「おもろいやっちゃな」
 深雪は唇の両端をムリヤリ引き上げる。
「奥様のご様子がわかれば、ただちに帰ります」
「そんな上等なもんはおらん」
「奥サンをちょっとだけ、見せてもらいたいんですけど、あきませんか」と、口調をやわらげる。

 襖の開く音がし、赤ら顔の肥った女性が姿を見せる。疲れ切った青白い容貌を予想していた深雪は内心、うろたえる。
 頭の中で、悲鳴をあげた女性を、燃えカスのようだった母親の容姿と重ね合わせていた。

「先にゆーとくけんど、身ィがぎょうさん詰まっとる、ボンレスハムみたいなんは、わいの嫁やないデ」
「うちが、いつものように大声で泣いただけ――ほんなら、近所のだれかが、意地悪して電話したんやわ」
 三十代後半に見える女性は滑舌の悪い話し方をし、ニッと笑った。前歯が上下ともない。恥ずかしそうに肉付きのいい手で口元を隠す。
「わかったか? さっさと帰れ」
 ボンレスハムさんと金壷眼さんとの詳細な関係を問いただしたかったが、民事不介入の原則に反する。
「お邪魔いたしました」
 きびすを返し、向き直る。
「その腕時計のふち、キラキラ光ってるのんは、ダイヤですよね? いくらくらいするんですか」
 男は底光りのする奥目を見開き、深雪の顔の下に腕を突き出す。 細い手首の腕時計の下から袖口にかけて刺青が見える。
「小堺巡査ももっとるぞ。お近づきのシルシにアンタにもやるデ」
「女性用じゃないですし、重くて使い勝手がわるそうなので、私はけっこうです」
「アホやな。質屋にもっていってみい。三万で引き取ってくれる。手取りで二十万にもならん警官の月給と比べたら――」
 奥目はそう言って、腕時計を外そうとした。
「東雲署のすぐ裏手に質屋があるやろ? そこへ行って、わしの名ァを――」
 深雪は背をむけ、鉄錆の階段を駈け下りる。

 自転車がなくなっている。
 男が二人、暗がりの中から現われた。
 彼らが何を企んでいるのか、ひと目で知れる。
 深雪は、警棒を素早く手にとる。
 右手を上に、両手で握りしめる。
 剣道の有段者との訓練で、なんども面を打たれるうちに、禁じ手だけは会得した。身長が低いことを逆手にとった。
 襲いかかってきた一人目の喉を下から突き、二人目は警棒をまっすぐに突き出し、急所を突く――。
 二人がほぼ同時に悲鳴をあげる。
 もう一人いれば、拳銃をぬき、撃つ気でいた。
 起き上がる男の顔にむけ、警棒を投げつける。
 舗装した道路に出るまで駈けつづける。

 クルマが一台、擦りよるように深雪の脇を通り、停車した。
 長谷川千賀が、助手席から整った顔をのぞかせる。
「自転車はともかく特殊警棒を投げ捨てるなんて、懲戒免職ものよ。逃げる方角も反対だし、人通りの少ない道へむかって、どうするのよ。地図は見てないの? 近くにある市場に逃げこめば、まだ開いている店だってたくさんあるし、人通りも多いのよ。でも、まあ、いい運動になったでしょ?」
 罠にかかった気がした。
「小堺巡査ですが――」
「彼には彼の役目があるの。前任者は、張り切りすぎたのね」
「不正を見逃すのですか」
「明日は非番でいいわ。一日ゆっくりやすんで、明後日の二月二五日付で波止場町にある港島署の地域課へ出勤しなさい。八時三十分だけど、早めにね」

 警察学校を卒業して、三ヵ月(現在は二ヵ月)間は、所轄と呼ばれる警察署の地域課で実務研修をうける。毎日、出勤し、六日ごとに警察署内で寝泊りしなくてはならない。
 深雪は五ヵ月間のブランクがあったせいで、実務研修をうけられず、いきなり地域(交番)警察官になったと独り合点していた。
 回復しているかどうかを、たしかめられたようだ。
 その場にしやがみこんだ。
 まだ六時にもなっていない。一瞬、一瞬が永遠に感じられる。

    5

 午前八時。
 ポートアイランドの西端、コンテナ船からの眺めはいい。
 波すれすれによろめき飛ぶカモメ、静まりかえった巨大キリンのガントリー・クレーン。
 対岸に、兵庫突堤をはさむ二つの造船所。そして、海と山と底なしに澄んだ二月の空と――。
「コーベはベスト・フレンドだ」
 感傷をふくんだロイの声音に、残っていた洗濯物をつめたボストンバックに金包みをそえて差し出す側は鼻白む。
「カイトと出会った日のことは、今も、よく憶えているよ」と、眉の下をそばめるロイ。「クソ野郎だと思ったろ? おれのこと」
 海人は北風の吹きすさぶ、デッキの手すりに寄りかかる。
 積み荷のないコンテナ船はグランドのようにだだっ広い。

 六甲おろしがグレーブルーの海を吹きわたる。内海なので波立つことは悪天候以外、ない。
 アメリカ製の安タバコをふかすには格好の雰囲気だ。
「アドレスが読めなくて、弱っていたんだ」
 東洋人には見えない海人にアプローチしやすかったと、ロイは懐かしむ。

 彼は、半年近く前の航海でアバンチュールをエンジョイした女の子にコンタクトを取りたがっていた。小さな紙きれを手に、船舶電話の前で立ち往生していた。

 海人は、硬い笑みをうかべる。つまらない親切が結局はアダになる。地番のない住所からテレフォン・ナンバーをしらべ、女の子を電話口に呼び出したまではよかったが、ロイの代理でデートを申し込むと、あっさりとフラれた。
 ありのままをロイに伝えると、おまえは彼女を横取りする魂胆でいると突如、言いがかりをつけられてとうとう口論になった。
 揉めた直後に、怪我をしたと知り、病院を訪ねたのだ。

「――殴らないのか、カイト」
 ロイは抜き打ちに、海人を驚かす。
「ディステイスト(後味がわるい)だもんな」
 とび色の目を凝らし、ロイは海人を見下ろす。
 海人は、煙草を取り落としそうになる。
「船乗りなんて、限られた時間しか陸地(おか)に棲めない」と、ロイは溜息をもらし、「女にもてないハード・ジョブ(苦しい仕事)さ」
 毛穴のひらいた粗い地肌が蒼ざめて見える。
「おふくろの色香(パワー)もリミットだったし、グッド・タイミングの幕切れだったよ」
 海人は静かに言った。本心を見抜かれて、カタをつけそこなった気もしたが――。
「なぜ、急に、姿を消したんだ?」と、ロイがなじる。
「ただの気分転換さ」
 海人は陽光を反射する海面にむかって、火のついた煙草を投げる。
「エミコは、カイトを心配して、おれと寝なくなった」
「思いすごしだ」
「おれは、クソ野郎だけどウソはつかない。エミコはカイトがいないと――」
 後につづく言葉を、海人はさえぎる。
「シスコには、ブロンドのイカス娘(コ)がわんさか待ってるよ」
「エミコほどセクシーな女はいないよ」
「寝るのに手続きが簡単だもんな。実入りのすくないのさえ、辛抱すればだけどな」
「そんなにドライじゃないよ」
「混じり気なしのガイジンは、おれたちハーフやクォーターとはちがう感じ方をすると、おとといは身に沁みたけどなァ。さんざんただメシを食って、ただ酒を呑んだあげくだもんな」
 二メートル近いロイが、広い背を屈める。
「あんなとてつもないバカは、二度と言わない。神に誓うよ。胸に溜まっていた余計なものを吐きだしたかったんだ。おれはカイトのように頭がキレないから、つい、意地を張ってしまう。お願いだ、カイト。今から、エミコに会いに行ってもいいか? なぁ、カイト、謝りたいんだ」
 海人はぐるぐる巻いたマフラーを口元に引き上げ、船尾にひるがえる星条旗に目をそらす。
「乗ったばかりのおまえに、外出許可がおりるわけないだろ」
 抜け上がった空に、ヒコーキ雲がしつこく尾を引く。

 こめかみが攣(つ)ってくる。
 しぼんだ様子の、ロイの繰り言にこれ以上かかずり合いたくなかった。この手の未練は、こりごりなのだ。別れ話を自分のほうから切り出しておいて、女もその気でいるとわかると気持ちがぐらつく。
 客が帰ったあとの店で、無理心中を図った男すらいた。

 大学の先生というふれ込みだったが、樟脳臭いスーツの前ボタンを引きちぎる勢いでアイスピックをふり回し、英美子に襲いかかった。海人が足をはらって、狭い通路に蹴ころがし、仰向けに倒れた男の前髪をつかみ、取り上げたアイスピックを男の耳たぶに突き立てた。大暴れした「センセイ」は、ほとんど血が流れていないささいな怪我で腰をぬかし、小便をたれた。
 死ぬ気じゃなかったのかと、ののしると、泣きだした。

「エミコを満足させられる男は一人しかいない」
 安全靴の足元に眼差しを固定したまま、ロイはアドバイスする。
エミコと離れたほうがいい。海人の身のためだと。
「そうでないと――」
「どうなる? 説明しろよ」
 海人は片頬で嗤う。
「精神科医の厄介になる」と、ロイは言い放つ。
「おまえは正常(まとも)だとでも言うのか」
 嫌味のつもりだった。
「カイト、ワン・モア・トライ、もう一度、ゆっくり話そう。はじめから」
「家の鍵を返してくれよ」
 海人の冷淡な言い草に、ロイは顎ひげをふるわせて訴える。
「気の許せる相手とはめったに巡り合えない。ワンシーズンだけじゃ、ほんとにツラいんだ。かならず戻ってくるよ。そのとき、エミコの店で再会しよう」
「なんのために――稼ぎにか?」
 海人はマフラーをもとにもどし、ニット帽を眉の下に下げる。
「この金は……」
 ロイは言いよどみ、海人の手から受け取った茶封筒をカーキ色の作業着のポケットにねじこんだ。
「ほんとは、要らなかったんだ。儲け口があったんだ。ただし、後払いだって言うもんだから……」
 いやな予感がした。

 港を仕事場にしていると、それと知らずに片棒を担がされる。
「兄ちゃん、ちょっと頼まれてくれへんか」と声をかけられる。
「この包みを、PC4に停泊してる、ちんまい(ちいさい)船に届けてくれへんか。駄賃は、はずむよってに」
 車内を調べられず、人工島の入り口にある税関の派出所を通り、道路に面してフェンスで区切られたコンテナバースに入るさいには、ゲートマンのチェックをうける。難なく通過できる職種は限られている。代理店に声をかけられた最初の日に、この種の誘いにけっして乗ってはにらないと注意された。

 気をつけろと忠告すべきかもと、思ったが、むさい男ばかりの生活を何ヵ月も余儀なくされるロイを、困らせたくなかった。地球でいうなら裏側に帰る男なのだ。
 日本と異なり、船会社にではなく、組合(ユニオン)に属するロイが、次の航海も加州航路に乗ると決まっているわけではない。
 海人は、潮風を胸の奥まで吸い、
「セーリング・タイム?」
「ミッドナイト……」
 ロイの声が尻すぼみになる。
「PC6にくるついでがあるから、見送ろうか」
 ロイは首を横にふった。
 チェッカー・ルーム(積み荷のチェックをする部屋)のドアが開く。ログ・ブック(航海日誌)を小脇にはさんだ、肩に金筋入りの制服に身を固めたチーフ・オフィサー(一等航海士)、通称チェッサーが赤銅色の顔をのぞかせる。
 持ち場につくよう、ロイを急き立てる。
 ガントリークレーンの稼働開始時間が迫っている。
 前部のカマボコ板状の広いデッキと、後部の船倉に、ひとつが6~12メートルあるコンテナをうずたかく積みこむ。
「アリガト、カイト」
 びっしり毛の生えた肉厚の手が、握手を求める。
 パンツのポケットから手をぬき、海人は応じる。握り返すと、歯ブラシのような硬い毛に触れる。

 エミコがくすぐったがるんだと、ロイが言ったのは、きのうのような気もするが、いつのことだったのか……。
 子供の頃、観た映画のように何もかも、うすぼんやりしている。
 ブリッジ(船長が指揮をとる場所)を通りこし、はるか先のデッキへ向かうロイを、海人は目のはしで追う。
 片足をかばう、のっそりした歩き方に笑いが込みあげる。冬眠あけの熊のようだ。

 憎めない。

 不精ひげがトレードマークのロイは、いつものんびり構えていた。
 南京町や生田新道を二人でのし歩くときも、物欲しげに余所見をしない。そのほうが女の子に誘ってもらえる確立が高いと、自信ありげだった。
「エミコには、秘密にしてくれ」と、忘れずにつけくわえる。
 女の子たちは、巷で言われるほどではないが外国人、とくに白人の男への警戒心がうすく、ロイが言うように向こうから誘ってくる。
 貧乏学生のフリでもすれば、そこら中、案内してくれると、ロイは厚い胸板を張る。
「ヴェリイ・カインドリィ。トッテモ、シンセツ」
 ロイがつっかえつっかえ言えば、そばに立っている海人も、品のよくない神戸弁はけっして口にしなかった。むろん、話すときは英語のみ。

 目配せひとつで、互いの意志が通じ合った。
 そう感じたかっただけ……。
 海と陸の世界は、けっして交わらない。

    6

 好景気のせいか、三ノ宮にひと駅かふた駅で出られる場所に、ワンルームマンションがつぎつぎと建てられている。
 柳沼深雪は、阪神線の岩屋駅から北へ徒歩五分の賃貸物件を借りている。
 30平米に充たない部屋だが、使い勝手はいい。
 身の回りの物は最低限にしている。
 冬の夜明けは遅い。午前五時に起床し、身仕度をととのえ、バナナとヨーグルトの朝食。窓の外は真っ暗。
 街灯をたよりに、岩屋駅まで歩き、普通電車で元町駅まで乗り、南出口を出てさらに南にむかって徒歩で約十五分。中突堤と新港第一埠頭の中間の岸壁に面して港島署はある。

 二月二三日、木曜日、午前七時に到着。
 東雲署とは異なり、くすんだ色の建物自体に威圧感があった。
 近距離にある海上保安部や税関本部と連携しているので、神戸市内の所轄の中で、もっとも重要視されている。
 神戸港における海上交通の円滑化とともに、犯罪の抑制が主たる
職務となる。所員数は百名を越える。
 希望した所轄ではなかったが、胸が高鳴った。署内に入ると、戸外より冷えている。暖房が入っていないせいだ。

 二階の地域課に一歩、足を踏みいれたとたん、宿直の男たちに出迎えられる。うす汚れた防寒着にハンチング帽の中年男性が、たれ目を深雪にむけ、「土左衛門が、あがってるでぇ。APLやから、PC5に行かんならん」
 昨日一日の学習が役立ち、APL(プレジデントライン)が社名、PC5がコンテナバースの位置をさすとわかる。
「あいさつはいらん。新人、行くデ」
「柳沼です」と、敬礼した。
 検視官のもつジュラルミンのカバンをふら下げた男性は、立ち止まり、すぐあとにつづく刑事に持たせると、
「わしは平田や。みなは、影で鬼ヒラやとゆーとる。ずぅーと巡査部長のまンまやから、ヒラ呼ばわりや。ほんまかなわんデ」
 刑事らは、係長の僻(ひが)みやと口々に言う。
 鬼ヒラは、目深にかぶったハンチング帽の縁をつかんで、浮かしながら、
「昇任試験を受けても通らんから、やめたんや。なんであないなムナクソの悪い試験がいるねん。すいすい試験に通るヤツにかぎって捜査は不得手や。上には、アホしかおらん。アンタの友達はべつやデ。べっぴんやし、頭もガタイもええ。けど、見なろうたらあかん。アンタはこんまいし、きゃしゃや。あくせくしても一生、のんびりしても一生や。わしのように、ホトケさんみたいになり。わしな、みなに拝んでもらいたい。わざわざ手ぇあわせんでもええからな」
 口を押さえて笑いを堪えた。
「ええ子やな。わろてくれた新人はアンタが、はじめてや。みな、ギョッとした顔してだまっとる。わしみたいに嫌われモンになったらかなわんと思てな」
 ほな、いこかと鬼ヒラは、だれということもなしに声をかけた。
 猫背とギョロ目の二人と深雪が鬼ヒラに従った。残る三人は足早に部屋を出て行った。

 港島署の敷地内にある岸壁に巡視艇が一隻、停泊している。
 先に行った三人の乗る巡視艇は、すでに岸壁を離れていた。
 空が茜色に染まる頃、三人は巡視艇に乗船し、現場に向かった。

 船内は広くない。操舵手にならい、座席に座る者はいない。
「ヤギヌマゆーのんは呼びにくいな」と鬼ヒラがつぶやいた。
 エンジンの音で聞き取りにくい。
「ヤギやと、めぇめぇさんみたいやしな。ヌマももっとよーないし、呼び名はなんがええやろな、セジマ」
 セジマと呼ばれた猫背の刑事は、左手に見える朱色の神戸大橋を一瞥し、
「夕べは、えらい目ぇに遭わされましたから、ヤナギでええんとちゃいまっか?」
 一昨日の二人組は、彼らなのか?
「ヤナギはしぶとい木ぃやさかいな。柳に風ゆーもんな」
「もうちょっとで、大事なところを潰されるとこでしたワ」とギョロ目。
「聞いての通りや」と鬼ヒラ。「わるう思わんといてや。二人ともわしの部下や。あとの三人はヨソからの寄せ集めやから気にとめんでもええ。いまから三ヵ月、実務に就いて、わしらについていけるか、どうか、見さしてもらう。人手が足らんのや」
「なぜ、私を?」
 だずねると、しばらく口を引き結んでいたが、
「警察学校で、女は、合気道を選択したらええことになってる。アンタは経験のない剣道を選んだ。逮捕術の訓練でも、弱いくせにへこたれんかった。高校生にしか見えんのに、いっかいも泣かんかったそうやな」
 鬼ヒラは言葉を切り、
「後藤組の舎弟、石垣にお(会)うた気分はどないや?」
「恐かったです」
「呑気に構えてたら、なんぼでも、恐ろしい目ぇに遇う。気ぃひきしめてかかりや」
「はい」
「返事だけはええと言われんようにな」

 先発隊の三人のうち一人が規制線を貼り、二人がウェットスーツに着替え、アクアラングをつけ、オレンジ色のブイに身を寄せた水死体を警備艇に引き上げている。背をむけ、彼方を眺めている様子の男性が、突然、振り向いた。

「いまも、港外で、入港するコンテナ船が待っているんです」
 日本人には見えない青年は、不満げに言った。背中にリュックを背負い、鼈甲柄の縁のメガネをかけ、ニット帽にカーキ色のパンツ。黒の防寒用のジャケットに濃紺に白のストライプの入った長いマフラーを襟元になんじゅうにも巻いている。
 装いに隙がないと、深雪は思った。
 彼は、刑事らが到着する前からそこにいた。
 彼一人ではない。
 猫背が小声で説明してくれた。パイロット(水先案内人)を送迎する赤い車両をはじめ、綱取り屋、船舶電話、代理店、荷役にかかわる者らが、〝東洋信号〟で入港時間を確認し、接岸の三十分前に出揃うと。
「アンタ、代行業か」と鬼ヒラ。「いつのまに」とつぶやいた。
 青年は無言で名刺を差し出した。
 鬼ヒラはちらりと見て、猫背に手渡し、猫背が見おわると、ギョロ目が見て、深雪の手に。
 英字の代理店名の下に、『Kaito Hattori』と書かれていた。
 血の気が引いた。
 あの女の息子だと直感した。父親がのぼせあがり、何もかも台無しにした女の子供が目の前にいる。
「アンタが第一発見者か」
「水夫が一名、行方不明だと連絡が入って、担当してるUSL(ユーエスライン)のコンテナ船が午後十一時に出港するのでPC6にいたんです。それで探しにきたんです。酔っ払って岸壁をうろついてることが時々あるので――結局、その時点では見つかりませんでした」
「ほんで?」
「三十分ほど、捜し回りました。出港後に見つかったときは、タグボート(関門で入港船を待つ引き船)か、チャーターボート(港のタクシー)に頼んで港外まで送るつもりでした。ぼくの担当ではなかったんですが、キャプテン(船長)に頼まれましたからね」
「知り合いか」
 一瞬、間があり、うなずいた。
「どこで知りおうたんや」
「母の店です」

 深雪の母は、父を許したが、父は女が忘れられず茫然自失の日々を送った。母は絶望し、自ら命を絶った。
 死ぬ前日、母は泣きわめいたあとに、ぽつりと言った。
「ごめんね、深雪」
 謝らなければならないのは、母ではなかった。自分だと深雪は思っている。死ぬほど思いつめていると、気づかなかった。大学に入学したばかりの深雪は父が失職したため、アルバイトに忙しく、意気消沈した母親をうっとおしいとさえ思い、愚痴に耳を傾けることも、やさしい言葉をかけることもなかった。

「さっさとかかれっ!」鬼ヒラが突然、怒鳴る。
 上屋と呼ばれる倉庫やコンテナヤードに争ったあとがないかどうか、計四人で痕跡を探した。ガントリークレーンやコンテナ用の大型車両が往来するコンクリートの岸壁なので、仮にあったとしても目視で見つけるのは困難だった。

 岸壁に引き上げられた遺体に外傷はなかった。
 30センチほどのブイに上半身を乗せていた水死体は、プレジデントラインの水夫だった。
 名前は、ロイ・ガードナー、二五歳。出港前に疾走したため、船長にかわって船会社のエージェント、服部海人が港島警察に届け出を提出し、コンテナ船は出港した。
「体温を計れ」と深雪は命じられる。
 一瞬、緊張したが、手袋をはめ、遺体の作業ズボンと下着を剥ぎ、肛門に体温計を挿入した。測定し、鬼ヒラに報告すると、
「死んだんは、いつごろやと思う?」
「おおよそ数時間前かと思います」
「ふむ」と鬼サラはうなずき、腕時計を見た。「出港時間は零時や。一時間前に点呼があった。そのときにはもうおらなんだそうや。死亡時刻は午前二か、三時頃やとすると――どこぞで遊んでて、乗りおくれた。大慌てできたもんやから、岸壁から落ちて、あっぷあっぷしながらブイまで泳いだゆーことか……そこで力がつきたか……」
 鬼ヒラはふむと唸り、額を掻いた。

「船員がいなくなっても、船は出港するんですか」
 深雪か猫背にたずねると、
「二四時を過ぎると、割り増し料金を取られる」
「だれに?」
 小声で訊いたが、鬼ヒラが口をはさむ。
「神戸市や。岸壁手数料ゆーのやけどな、これがヨソより高い。いまに台湾の高尾や韓国の釜山のコンテナバースに仕事をもってかれるやろな。お役人のすることは、ほんまにわからん。日本ではじめて、コンテナバースをつくったのはええけど、金勘定ができひんよって、ホトケつくって魂いれずや。ほんまにアホやデ。金勘定にさといアメリカさんは専用バースを真っ先に引き払うやろな」
 鬼ヒラは、手持ち無沙汰にたたずむ服部海人に向き直ると、
「アンタの仕事も、じきに、のうなるデ」と言った。
 服部海人はニヤリと嗤った。
「港にかかわるもんは、夜間の荷役がなくなったときに、近いうちに、ここはおわるとわかってました。ぼくらみたいな代行業に代理店業務を委託するんですから、仕事を減らしてるのだと気がつきます」
「英語はどこで覚えたんや?」
「むかし、福原にあった外人バーです。近頃は、自動化のおかげで停泊時間がどんどん短くなってますから、船員は遊ぶ時間もろくにありません」
「調書をとりたいから、港島署まで来てくれるか」
「どこへでも行きます」
 服部海人はメガネをはずした。
「そのまえに、この場所を一分でも一秒でも早く、空けてもらえませんか。タグボートもパイロットも港外でジリジリしながら待機してるんです。荷役が遅延すれば、刑事さんがおっしゃったように損が出るんです。おわかりですよね、お役人なんですから」
 鬼ヒラは、ほんまやなと口の中で言い、
「そらそうと、ホトケさんが、遊んでた店は、アンタのとこか」
「おふくろの店で酔ってクダを巻いてたんやったら、ぼくは、送ってきてますよ」

 深雪は、自分と同じ世代に属するこの青年の過去を知りたいと思った。あの女から産まれた男がこの場所に立つまで、どのような人生を歩んできたのかを知らなければ、報復はできない。

 セイアンと呼ばれる生活安全課の刑事二人がやってきた。一人は私服の長谷川千賀だった。彼女は、深雪と目が合うと、かるくうなずいた。そして、仰向けになった遺体を検分すると、「体温は?」と訊いた。このとき、服部海人の緑色の目があやしく光った。

「31度です」と答えると、「冬の海だし、通常なら、もう少し高いわね。皮膚もほとんどふやけてないし、死斑もないし――」
「警部補さんのお越しや」と、鬼ヒラが嫌味を言った。「一発で合格とはたいしたもんや。おめでとうさん」 
 長谷川千賀は微笑むと、
「平田係長、きついこと言わんといてください」
 長谷川千賀は聞き流そうしたが、トレンチコートの男性刑事は露骨にいやな表情を見せながら、後を引き継ぐついでに、苦情を言うことも忘れない。
「溺死に警備艇を二隻も使用してもらっては困ります」 
「ほんでも、アンタらがくるゆーことは、なんか臭うからやろ?」
 麻薬取引を、生活安全課はあつかう。
「なんで、平田係長の宿直の日にかぎって、事件が起きるか、わかりませんワ」
「しょうないやろ。110番通報の入る通信室は、地域課にあるんやから。ちょっと前までは、生活安全課なんて、わけのわからん課ァはなかったんやデ」
 男性刑事は眉間にしわを寄せた。
「いらん世話やかんといてくださいよ。地域課は、波止場町近辺を担当してもらわんと」
「セイヤナ」と、鬼ヒラはセイアンをもじった相づちつもりのようだ。
 服部海人は長谷川千賀の顔を見ながら声を出して笑った。

 港島署の警務課長に挨拶したさいに、深雪は事情聴取に立ち合わせてもらえることになった。
 今日一日が、人生の境界線になると、感じた。
 明日の朝までに、この男の母親に会いたい。


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