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【小説】コーベ・イン・ブルー No.4

    

 柳沼深雪は私服に着替えると、服部海人の供述した店の住所にむかう。もしも、服部海人と出くわしても見破られない自信がある。小柄だし、化粧気はないし、目立つ言動は服部海人のいる前で極力しないようにした。
 ロングヘアのかつらを被り、濃い化粧をし、黒のストッキングに高いヒールを履き、毛皮のハーフコート。
 この出で立ちになれば、別人になる。

 人間とは不思議なもので、外見が変われば、内面も変化する。
 しらずしらずのうちに浮ついた気分になる自分自身にたじろぐ。

 阪神三ノ宮駅を出て地下街を通り、阪急線とJR線が併設されている高架線の見える十字路に出る。繁華街の東端になる。ダイエーに面しているせいで休日には若者でごった返す。しかし、平日の夜は、ひと通りはさほど多くない。
 ダイエーの店内を通りぬけると、裏通りに出る。
 サンパルと呼ばれる雑居ビルに突き当たる。
 ビルの脇に路地があり、さらに奥にすすむと、入りくんだ細い道が網の目のように広がっている。
 赤ちょうちんが目につく。
 観光案内書には、これまでもこの先も載らない周辺だ。
 消防法や建蔽率を適用すれば、2メートルもない道幅に密集して建つ、くすんだ建物の群れのどれ一つとして許可が下りないだろう。

 目当ての店は、三階建ての地下にある。
 階段の入り口のどこにも店の名は見当らない。

 一階は、雪駄や草履の履物と、ニッカボッカなどの作業服を売っている。
 二階は、ガラス窓に「麻雀」の文字。
 三階は、貸事務所。
 窓枠はアルミ製だが、くすんだ外壁はひびがいく筋も走っている。

 逡巡している深雪のそばを、彼女と同じ年頃の青年が、海人と肩を寄せあい、笑いころげながら降りていった。
 自分では精一杯、派手な女性に変装しているつもりなのに、二人は、ひと目もくれずに急な階段を下へ――。
 肩すかしをくらった気がした。

 店の扉には、EMMY&KAIとある。

 中に入ると、彼ら二人と、着物姿の女性が一人。
 人待ち顔の彼女は、美しいという形容詞では言い表わせない容姿をしている。
 なで肩で痩身。
 額が広く、目が異様に大きく、通った鼻筋に小さな口。肌の色は青白い。
アジア系の顔立ちではない。
 ビールを飲みながら煙草を吸っている服部海人とは、トシの離れた姉弟にしか見えない。
 もっと不潔な印象の女を想像していた。
 彼女の見開かれた瞳は、曇りがなく、幼ささえ感じさせる。疑うことを知らない眼差しだった。

 狭い店内なので、カウンターの中にいる女性と、カウンターにいる男性二人の視線がいっせいに深雪にむかう。
 手前が海人だった。

「いらっしゃい!」
 女性は、手招きし、
「どこに、すわらはる? カウンターにする? あっちの四人掛けにする?」
 深雪は、海人とひとつ離れた脚の長い丸椅子に腰かける。足が床にとどかない。足をどこへ置けば、いいのか、迷っていると、
「椅子の脚に、ヒールの踵をひっかけといたらええねんよ」
 彼女が気軽く言うのと同時に、四十がらみの黒服の客が入ってくる。その男は、女性に軽くうなずき、海人の連れの男性を一瞥し、その隣に腰かけた。

 一瞬しか、その男を目にしなかったが、一度、見れば脳に焼き付く何かがあった。目つきが鋭い。警察学校の教官を思い出す。
「水割り」と黒ずくめの男はひと言。
「ハイハイ」と女性は急いでグラスをカウンターに出し、ウイスキーを注ぎ、炭酸と氷を足す。
「カラオケしはる?」と女性が、男にたずねる。
 黒服の男はそれには答えず、カウンターに肘をつき、海人の隣の青年に話かける。
「えらい男前や。カイの知り合いか」
 青年は返事をしない。
 女性は胸を撫でおろした声で、
「まだ宵の口やから、ちょうどよかったわ。カラオケなんて、きらいでしょ?」
「どうして……それを……」
「カイちゃんもそうやから――カラオケが好きなお客さんがくると、話す声もなんも聞こえへんもん」
 そう言って、彼女はおしぼりと氷の浮いた水を出す。
 横顔の、こめかみの血管が透けて見える。

 深雪は毛皮のコートを脱ぐ。
 海人の連れの青年が、立ってきて、コートをハンガーにかけ、店の壁のフックに掛けてくれる。
 壁は煙草のせいだろう、黄ばんでいる。
「だいじょうぶですよ。少しの間だったら、臭いはつきませんから」」 
 港島署では、けっして見かけない容貌の青年だった。育ちのよさが端正なたたずまいに表れている。それでいて、親しみやすい雰囲気が彼から漂う。
 でも、なぜ、深雪が臭いに敏感だと、彼は気づいたのか?
 きっと自分でも気づかないうちに、顔をしかめていたにちがいない。
 礼を言い、
「店の名前は――」
 つくり笑顔の女性が横から、
「アタシのエミコからとってるの。それにぃ、息子の名前のカイをくっつけてん。エミコは、英雄の英と、美しいの美と、子供の子。ええと思わへん? アタシ、気に入ってるねん」

 エミコ、エミコ、エミコ……。父はいまも、入院中の病院で、その名をくりかえしつぶやいている。
 母の名をただの一度も口にしない。

「ナニ飲みはる?」
「えっ」深雪は一瞬、絶句する。
「コーラでええ」と、煙草を口にくわえた海人は、前をむいたまま言った。「アンタ、潜入捜査してるつもりなんか」
 灰皿で煙草をもみ消しながら、
「そやろ?」
 向き直った海人とはじめて視線がからまる。
「センニュウなんたらて、なんやのん」と英美子。
「税関の職員もそんなことするんですかっ」
 端正な青年が身を乗り出し、深雪を見つめる。
 真っ黒な瞳に吸いこまれそうになる。
 深雪は冷凍食品になったように固まる。
 その向こうの中年男はニヤついている。
「ロイの解剖は、すんだんか? いや、せんかったやろな。ゲートマンが待機してる小屋で聞き込みをしたはずや。ロイはぐでんぐでんに酔っぱろうて、夜中の二時に帰ってきた。そのまンまコンテナバースに座りこんで、ウィスキーをらっぱ飲みしてた。ちがうか?」
 深雪は固く口を閉ざした。
「ゲートマンは一応、追いかけたけど、逃げ回って手におえんからほっといた」
 深雪は頭の中でどう対応すべか、懸命に考える。
 このことが、平田係長や警部補の長谷川千賀に知られれば、厳重注意を受ける。
「おれへの疑いは晴れたんか」
「言いがかりです、なんのお話か、アタシには、よーわかりません」
 深雪はできるだけ平静を保って返答する。
「おれはコンテナバースを捜す前に、おふくろの店と、家の近辺を捜した。それでひと足おくれた。まさか、冬の海で泳ぐ気になるやなんて思いもせんかった」

 長谷川千賀の判断で事故死とみなされ、行政解剖に回された。
 帰署したとき、溺死による死亡と、死体検案書に記述されると、平田係長も疑念を差しはさまなかった。
 深雪一人が、服部海人に疑いをもった。

「カイちゃん、もしかして、ロイが海に落ちて死んだゆーてるのん?」
 襟元を直していた服部英美子は、大きな目を見開き、海人に顔を近寄せる。
「ケーサツは、おれが突き落としたと勘違いしやがった!」
 海人は手にしたグラスを、深雪のすぐそばの床に叩きつけた。
 グラスの破片とビールの水滴が飛びちる。
 足を縮めていなければ、破片と水滴を浴びただろう。
「なぁ、カイちゃん、ほンまのほンまのことなん?」
「こんなことウソで言えるかッ」
「なんで教えてくれへんかったの」
「教えて、どーなるゆーねん。生き返るンか」
「お葬式に……」
「遺骨は引き取って、神戸港に撒くつもりや。いずれな……」
 英美子の大きな目から涙がこぼれ落ちる。
「乗船するのが、よっぽどイヤやってんわ。かわいそうに」
「たぶんな」と、海人の声がかすれる。

 英美子の流す涙を目にした深雪は、胸の奥深くに沈殿していた憎悪の塊がわずかに溶けた気がした。

 美青年の隣に腰かける黒ずくめ男が、しきりに彼に話しかけている。
 青年はあきらかに困惑した表情を見せている。

 椅子からすべりおりた深雪は、ガラスの破片を踏んだ。
「もうお帰りか」と、海人。
「こんなこと言われて、この店にいることもないし――お勘定、お願いします」
「おかしな格好して、わざわざ覗きにやってくるぐらいやから、なんぞ言いたいことがあるんやろ。おれとおふくろのどっちに用があるんやッ」
「かなわんわぁ」
 海人はたたみかけた。「すっトボけるのも、ええ加減にせぇよ!」

 美青年は中年客の肩にかかった手を振りはらい、椅子から立ち上がり、深雪のそばに来た。
 深雪は海人の怒声より、美青年と接近したことに動揺みゆき。
 青年はほほ笑みながら海人を振りかえり、「いいじゃないですか、そんなに感情的にならなくても――」と言った。
「そうでしょ?」と深雪に声をかけ、ついでに毛皮のコートを肩に着せかける。
「恐いもの見たさの好奇心って、だれにでもあるじゃないですか」
「ナニ、ぬかすねん。ナめとんのかッ」
「まあまあ、そう言わずに――ちょっと送ってきます」
「帰ってくんなッ」
「お勘定がまだ……」
 深雪がつぶやくと、青年は首を横にし、「ぼくに付けてもらいますから、気にしないでください」と言った。

 急な階段店をのぼり、店の外に出る。だれかが、すぐ後ろから階段を駆け上がってくる。
 青年は眉をしかめる。
 深雪が振り返えろうとすると、青年はいきなり深雪の肩を抱き、顔を近寄せた。反射的にまぶたを閉じた。
 
 唇が重なった。青年からはいい匂いがする。刺激のない、柑橘系のよい香りが――。

 追ってきたのは黒ずくめの男だった。
 男は、口づけている二人を横目にし、荒々しい足音を残して立ち去った。
 深雪は誘うように唇をわずかに開ける。
 青年の舌がほんのわずか、深雪の舌に触れる。

 青年は唇を離すと、丁寧に謝り、コートのポケットから真っ白なハンカチを取り出し、深雪に手渡した。
「驚かれたでしょ? ぬぐってください」
「さっきのヒトは、お知り合いなんですか」
 深雪はハンカチを使わずに返す。
 彼の唇の感触と匂いを消したくない。
「もちろん、はじめて会ったヒトです。この店にくるのも、ぼくは今夜がはじめてです」
 青年はそう言って、後ろ向きになり、自分の唇をぬぐった。
 ハンカチに深雪のルージュの色がつく。
 彼はもう一度、謝った。
「許していただけますか」
 深雪はうなずく。
「さ、行きましょう」

 肩を並べると、頭一つどころか、青年の肩までしか、深雪の身長はない。
 路地をぬけ、南にくだり、国道沿いに歩き、地下街に入る。
 阪神電車の乗降口の目の前にある喫茶店のドアを青年が開ける。

 チャコールグレーの上質のコートを着た青年は、藤原康介と名乗った。
 もらった名刺の社名と氏名は縦書きの日本語だった。
「船会社の方なんですか……」
 深雪も港島署からもらったばかりの名刺を差し出す。

 そんなことをしてはいけない!
 もう一人の深雪が心奥で絶叫している。

 康介は中腰になり、両手で名刺を受け取ると、
「いまは、子会社の代理店で研修中なんです」
 と言ったあとで、
「へぇ、警察の方の名刺を、はじめて拝見しました」

『兵庫県港島警察署・地域課第三係・兵庫県巡査・柳沼深雪』

「私も、実務研修中です」
 深雪が答えると、
「三係って何をするところなんです?」
 深雪は説明した。三交替制を維持するためにあると。
「基本は二四時間勤務なんですが、三係は今日、非番だったので明日からが本番なんです。宿直とかもあって、まだ、どういうふうに組織が機能しているのか、よくわかりません」
 港島署に着任するまで、深雪は自身が三係に配属だと知らなかった。
「地域課は、何をするところなんです?」

 水をひと口のむ。
 藤原康介に見惚れる。
 声のトーンが耳に心地いい。
 ついさっき、このヒトとキスしたのだと思うと、顔中がヒリヒリする。なぜだか、わからないけれど、下半身が痺れる。

 深呼吸をし、
「地域住民の安全のための巡回パトロールが主な仕事です」
「でも、事情聴取とかもするんですよね」
「研修中は、刑事課や生活安全課の補助要員としても、使ってもらえる――みたいです」
「スゴイですね」
「まだ何もしてません。一日目でしたから」
「初日に、服部サンにひと目惚れしたわけですか」
 深雪は大きく首を横にふる。
「いいじゃないですか。ぼくも、女性だったら、服部サンに惚れますよ。カッコいいですもんね。男気もあるしなぁ」
 康介は前髪をかきあげる。
 整った涼しげな顔立ちと細く長い指との相乗効果で、深雪は魔法にかけられたような面持ちになる。

 なぜか、身も心もゆだねたくなる。
 これほど美しい男性を間近で目にしたのは、初めてだった。

 同じ美形であっても、服部海人には隙がなく、話しかけられない印象を最初に受けた。事情聴取のあいだも、長谷川千賀の問いかけに、一見、気軽に応じているように見えて、それは表面上のことだとすぐに知れた。ときどき、口元に浮かぶ、醒めた微笑もだが、関西弁に切り替わったときに見せた視線の強さが忘れられない。
 ヤクザの石垣のほうがまだしも、くみしやすいと感じた。
 あの男には、腕時計の件が確かめられた。
 しかし、海人には、海外の高級ブランドのメガネについて、長谷川千賀は質問しなかった。
 というより、事情聴取の途中から、形勢が逆転した印象があった。
 理由はわからない。
 長谷川千賀は早々に切り上げると、コンテナバースの入り口で人や物の出入りをチェックするゲートマンへの聞き込みを、三十代の男性刑事と深雪に命じた。

「乗り遅れることをミスシップと言うのですが、なぜ、その船員のことで服部サンが疑われたのですか?」と康介が訊く。
 ここで話すべきではないと、わかっていた。職務違反にあたると。
「不審死に見えたので、それで、親しくしてらした服部海人さんが参考人として、呼ばれたのです。ただそれだけのことなんです」
「じゃあ、キミはどうして――?」
「事情聴取を間近で見たのがはじめてだったので、ロイという人が、どんなお店で遊んでいたのか、ほんの少し興味があったのです。おバカでしょ?」
「グラスをぶつけられて、怪我をするところでしたね。せっかくお洒落をしてきたのに」
 深雪はうつむき、力なく首をふった。
「とてもかわいいですよ。男ならだれだって、クラッときますよ」
「そんなこと、ゼッタイないです」
「そんなことありますって――さっきは、あとから店を出てきたオジサンを口実にして、キスしたくらいですから――心配しないでください。あなたとキスしたなんて、服部サンにはけっして言いませんから。もちろん、ここで話したことも――」

 康介は駅の乗降口まで深雪を見送ってくれた。
 彼は深雪のかつらの髪に触れ、「またこんど」とささやいた。
 美声を耳奥に残して、深雪は地下鉄の階段を降りる。
 途中で、振りかえる。
 康介の姿はかき消えていた。

 一刻でも早く、着替えたいと思う一方で、服部親子の住む家の周辺をさぐりたかった。
 港島署に赴任する二日前に、110番通報のあった地域に彼らは居住している。
 住宅地とは言えない、夜の底のような一帯だった。
 根っからのヤクザと得体のしれない住民の混在した町。
 おそらく長谷川千賀の意向で、深雪は、ヤクザを犯罪者とみなしていない警官のいる交番へ派遣されたのだ。
 平田係長も同意したはずだ。二人の部下に深雪を襲わせたのだから――。
 彼女は、深雪が休職を余儀なくされたときに、過去を調査したにちがいない。今回の不自然な移動も、父と服部英美子との関係を知った上でのことにちがいない。

 普通電車に乗りこみ、発車するのを待つ。
 通勤時間帯ではないので、比較的、ゆっくりできる。
 警察官の制服と異なり、ストッキングにハイヒールはからだの芯を冷やす。

 吊り革にふらさがり、考えを巡らす。

 一年先輩だった長谷川千賀を、深雪は学生時代、尊敬の眼差しで見ていた。
 法学部での成績が抜きんでていた。
 学生の大半が男子だったが、彼女に声をかける者はいなかった。
 彼らは恐れ多いと思う気持ちが先行したのか、長身で美貌の彼女に近寄らなかった。
 深雪は男子学生からひんぱんにデートに誘われた。
 母の自死を気取られないように、必要以上に明るく振る舞ったせいだ。
「えーっ!」と、なんでもない冗談に驚いて見せたり、ちょっとした親切にも、「うれしぃ!」と大げさに喜んで見せた。
 何もかも演技だったとは言わないが、それが自己防衛だと気づいた男子学生は一人だった。

 彼は長谷川千賀と同学年だったが、一浪していたので、深雪より、
二歳年上だった。はじめて二人きりで会ったとき、彼は言った。

「キミって、一見、軽く見えるけど、中身は意外と慎重だよね」

 彼と男女の関係になるのに時間はかからなかった。
 彼は、深雪の父親が教授職にあると思っていた。その頃はまだ、父は鬱病と診断されながらも、自宅療養中ということで大学に籍があった。安眠できないのか、昼夜逆転した生活をしていたが、母の死後、娘のために立ち直ろうと努力している気配もわずかだがあったように思う。しかし、父は自らの欲望に忠実だった。

 コンビにのバイトを終えて返ってきた深雪が目にしたのは、書斎で、「エミコ」の名を呼びながら、自慰行為にふける父のあさましい姿だった。
 おぞましく、情けなかった。
 深雪は初体験の相手だった彼に、悩みを打ち明けた。
「母が自ら命を絶ったのは、その女のせいなのよ。なのに父は――」
「男はさ、心と体とが一致しないんだよ」 

 彼はほどなく深雪に冷淡になっただけでなく、女子大生と付き合うようになった。
 深雪は心変わりした彼に捨てられまいと、彼の求めにはなんでも応じた。
 退屈しのぎに抱かれるだけだと、わかっていても、思い切ることができなかった。
 食事代もホテルにかかる費用もぜんぶ、自分が支払った。

 いつものように一方的な乱暴な交わりのあと、彼は煙草を吸いながらつぶやいた。
「ほんとはさ、長谷川千賀が、よかったんだけどなぁ。あいつの家はとんでもない金持ちなんだぜ。家柄もいいんだ。所詮、高嶺の花だったわけさ。なんで警察官になったのか、ワケわかんねぇ」
「噂だけど、お爺さまが昔、大阪府警の本部長だったって訊いたわ」
「マジかよ」

 父が日常生活を放棄する行動をとるようになったのは、深雪が刑法のゼミに入り、長谷川千賀と同じクラスになった頃だった。
 父の症状は急激に悪化し、深雪と顔を合わせても、他人行儀な態度をとり、虚ろな目が宙をさまようようになった。
 入院した父は、だれにも見えない〝エミコ〟に話しかけ、微笑む――。

 もう父のことを案じたりしないと、なんども心に誓った。なのに、記憶は去らない。深雪の裡(うち)にとどまりつづける。

 夜の底のような闇に沈む町に、深雪はふたたび足を踏み入れる。
 親子の住む家は、ヤクザの石垣の住むアパートのすぐそばだった。
 平屋の一軒家だが、褐色のつたが板壁にからみついている。家そのものが傾いている。格子の引き戸の不透明なガラスは割れている。
 廃屋にしか見えない。
 親子の服装から貧しさは感じられない。海人が働き、英美子が店を構えていれば、これほど見苦しい家に住まなくてもいいはずだ。
 深雪自身は、父を病院に入れ、家を売却し、経済的に困窮する暮らしをしなくていい。

 足音を忍ばせて、付近を見て回る。
 人声と生活音とが入り交じり、ヒールの踵が地面を踏む音をかき消した。
 まといつくような淀んだ空気が息苦しい。
 だれかに、背後から腕を引っ張られる。

 息が止まる。

 振りむくと、厳しい表情の長谷川千賀がいる。
 ジーンズに、厚手の防寒着の彼女は、素顔だった。
「口はきかないで」と、彼女は先に言った。「どういうつもり?」
 口をきくなと言われているので、どう返答していいのか、わからない。
 彼女は深雪を腕をつかんだまま、路地から広い通りにむかって行く。
 生田川にかかる橋までくると、手を離した。
 対岸にあるファミリーレストランについてくるように言った。
 彼女は橋の途中で、ふいに立ち止まる。
「言いたくなかったんだけれど、先に言っておくわ。服部海人も気づいてると思うからーー」
 長谷川千賀は、フムとため息をつき、
「わたしね、ロイを知ってるの。と言っても、一夜かぎりの関係だった。そんな顔しないでよ」
「服部海人が口にした、〝女の子〟って、長谷川警部補のことだったのですか」
 彼女は小さくうなずくと、コンクリートの川底をのぞきこみ、
「先に県警の採用試験に合格してたんだけど、本命は国家公務員Ⅰ種資格をだったので、こっそり受けたのよ。通りっこないのにね。一次試験で落ちたわ。鼻っ柱をヘシ折られたわよ」
「そんなことできるんですか。合格後、すぐに警察学校に――」
「ちょっと奥の手を使ったのよ。一日だけ、忌引きで休ませてもらったわけ」
 長谷川千賀にそんな一面があるとは、想像だにしなかった。
「――でね、警察学校のとき、つらくって、情けなくって、休みの土日に中突堤にあるモダイクのあたりをブラついてたのよ」
「そこで知り合ったのですか――溺死した男性と」
「日本人が相手だったら、あとが面倒だと思って、ま、いいかっていうかるいノリで、あやしげなホテルについていっちゃったわけ。笑っちゃうでしょ?」
「どうして連絡先のメモを渡したんですか?」
「それがさ、自分でもよくわかんないのよ。魔がさしたと言えばいいかしら。正直に言うと、すごくよかったのよ」

 スゴクヨカッタ。

 そのひと言が頭の中で木霊のように響く。
 深雪は性行為に愉悦を感じない。
 もしかすると、母もそうだったのではないのか……。
 だから自分は尽くした相手に捨てられ、父は、服部英美子の虜になったのだ。

 広い店内に入ると、鬼ヒラこと平田係長がいる。
「おう」と鬼ヒラは手をあげた。
 家族連れが多い客席で、三人は、異質な客のひと組だった。
「腹、減ったやろ? なんでも好きなもん、注文したらええ」
「私たちのこと、仲が悪いと思ってたでしょ?」と千賀が言った。
「いえ、お二人が合意のうえて、私を東雲署の交番に行かせたのだと、こちらにきてすぐに気づきました」
「ほら、言ったでし?」と、千賀は自分の頭を指差し、「カノジョ、ここがいいって」
「ほんまやな。これでタッグが組めるな」
「タッグ……?」
 深雪はおうむ返しに言った。
「実はね、平田係長は服部親子に以前から目をつけたのよ」
「どういう――」
「詳しい話はメシのあとや」

 鬼ヒラはハンチング帽をとる。帽子のふちを飾るように毛髪は残っているが、てっぺんと周辺はツルピカだった。骨張ったごつごつした手で、顔を上から下にむけて撫でおろした。
「帽子をかぶらんと、老けて見えるんがイヤなんや」
「ワインとビール、どっちがいいですか」と千賀がのぞきこむ。
「悪いな、いっつも警部補におごってもらうやなんて」
「ナニをおっしゃいます? 平田係長に教えてもらわんなんことが、まだまだ山のようにあります。なんせ、若輩もんですよってに」
「長谷川警部補はキャリアやもんなぁ」

 長谷川千賀は実務研修後、短期間の交番勤務ののちに、生活安全課の課長の推薦を受け、年に二回ある巡査部長試験に合格し、その半年後に警部補の昇任試験を受け、合格したと仄聞した。
 キャリア組に匹敵する、異例の昇進だった。
 国家公務員Ⅰ種試験の一次試験に失敗したと彼女は言ったが、合格していたのではないか――。
 平田係長もまた異例の出世といえた。
 本来、警部補試験に合格しなければ、係長職につけないのだが、長年の功績が認められ、巡査の階級のまま、四十歳で地域課の係長に昇進したとギョロ目の刑事が耳打ちした。
 二年前の地域課の組織再編が、異例の昇進につながったというのは表向きの話かもしれない。
 なぜ、不自然な人事がなされたのか……。

 深雪と異なり、二人は健啖家だった。
 よく食べ、よく飲み、よく笑い、冗談ばかり言った。
 署長の悪口も平気で口にする。
「あのアホはただのお飾りや」
「ホント、ホント。県警の本部長や管理官の前に出たら、いつも揉み手で、カニ歩きしてはりますもんね」
 千賀は食後のコーヒーをオーダーすると、ようやく口火をきった。
「行方不明者の数は、年平均、八万人くらい、いることは知ってるわよね」
「ほとんどの場合、居場所が判明するので、行方不明者の実数は年に二千人たらずかと――」
 深雪が答えると、千賀はうなずき、
「あの親子にかかわった男たちの少なくとも二人は、消息がわからないの」
 鬼ヒラがあとを引き継ぐ。
「わしな、六年前まで、東雲署の刑事課一係にいてたんや。今から十年前、息子の服部海人はまだ中学生やった。まず一人目がおらんようになった。五十三の働きざかりのサラリーマンや。二人目はその四年後。六十五の爺さんでな、不動産屋の小金持ちや。息子が福原の外人バーで働いてたときや。二へんもつづいたから、家宅捜査したんやけど、証拠は出なんだ。家の畳まであげて床下まで掘って調べたんやデ」
 ほとんど一人でワインとビールを空けたせいか、鬼ヒラの顔面は、赤鬼になっている。
「苦労して令状とったのになぁ、結局、わしの黒星になった。悔しいてなぁ」
 鬼ヒラは掌で、額をポンと叩いた。
「継続捜査には、ならなかったのですか」
「なるかいな」
「記録は残っているんですか」
 過去の記録文書は、重大事件でもないかぎり、データベース化されず、地下の保管室に積み上げられるという。
「データベース化はいつからはじまったのですか?」
 千賀が頭をかしげ、
「数年前からよ。指紋だけね」

 巨大なコンピューターの実物を、深雪は、目にしたことがなかった。
 県警本部にあることは、警察学校で知ったが、実習科目になかった。むろん、大学にも、設置されていなかった。
「しゃーけど、県ごとやから、ここで犯罪を犯しても、ヨソの県や都内や府内に逃げこまれたらおしまいや。行方不明者にしてからがそうや。県ごとの集計を本庁が集計して、発表するだけやよって、全国規模で捜査することはできん」

 オフコンと呼ばれる、オフィス・コンピューターに犯罪にかかわった人間の指紋を、県警本部の警務部の事務官によってデータベース化されるようになったのは昭和五七年(1982年)からだという。

「東雲署の地下に行ってみたら、わかるけど、ミソもクソも一緒くたや。整理するもんがおらんから、書類も証拠物件も空いた場所におくだけや。コカインもそのまま置きっぱなしや。年に一回、焼却するんやけど、そもそもどれくらいの量を押収したか、はっきりせんから、中身がメリケン粉にすり代わってても、だれにもバレん。おかしな話やけど、張りおうてるどっちかの組のもんと協力できたらええのやけど、連中は連中で縄張り争いで、そうもいかん」
「警察学校では、そんなふうに習いませんでした」
「だよね」と千賀は言った。「しょうがないのよ。ミニパトと自転車での巡回パトロールじゃあ、不法駐車や薬物依存者くらいしか検挙できない。ヤクザと住民が共存してる地域だからね。まあ、人手が足りないのが、すべての元凶なの。四交替制にしないと、重大事犯の逮捕なんてムリなのよ」
「今夜はどうして、あそこに――?」
「あなたこそ、そんな格好で、どうしてなのよ」
「もうご存じだと思いますが、母は、父と服部英美子が関係をもったせいで、命を絶ちました。それで、私を、服部海人の勤務地に近い港島署にお誘いくださったのですよね?」
 千賀はコーヒーカップを手にもち、ひと口すすり、「そうとも言えるし、そうでないとも言える」と言う。
「ほんで?」と鬼ヒラ。「見てきたんか」
「先に、母親の経営する店に行ってみました。変装したつもりだったのですが、服部海人に見破られました。それで、どんな暮らしをしているのか、知りたいと思いまして、家のほうへ――」
「メンが割れてるよって、しょうないな」と、腕組みをする鬼ヒラ。
「海人のやつ、わしと顔を合わしても、しらんぷりやもんな。はじめておうたような顔しよる。一六、七でおうたのが、最後やったから、かれこれ六、七年たつから、ほんまに覚えてないのかもしれん。その頃は、毛が残ってたから、帽子をかぶってなかったしな」

 長谷川千賀は服部親子の家を見張っていたのではなく、石垣の動静を探っていたのだという。この一年、二人のうちのどちらかが、張り込んでいたと。

「あの男が、死体を処理したと、私たちは考えているの」
「あいつの兄貴分の命令でな」と鬼ヒラ。
「服部親子はそのことで、いまも脅されてると思うの」

 深雪は黒服の男を見たと、その場で口にしなかった。
 それを言えば、藤原康介の名も口にしなければならなくなる。

「こちらでの実務研修後には、東雲署の警務課に行ってもらうつもりよ。現場は適さないので、書類仕事に回すように手配するわ」
 深雪は驚愕すると同時に内心、落胆する。
「そんながっかりした顔しないでよ。きっと、地下室で、何か見つかると思うからーーそれに、三人のうちの手の空いた者が、張り込めば、解決も早いと思うのよね」
 手の空いた者とは、深雪をさしているのではないか……。

 深雪は阪神電車で帰途につく間中、全身がアワ立つ。
 なぜ、千賀と鬼ヒラの駒として使われるのか?
 東雲署にもどされれば、藤原康介と二度と会えないかもしれない。
 彼は「またこんど」と言ったのに……。無性に腹が立つ。

 その夜、深雪は、ベッドに入ると、康介の舌先と自分の舌先が触れたせつなを思い返す。
 下肢がしびれる。
 康介の細い指に導かれるようにうごめく手と指が、陰部に吸い寄せられていく――。
 
 自分の思いや意志とは関係なく、喘ぎ声をともない、奥深い淵が痙攣し、臀部から背骨にかけて言葉で言い表わせない愉悦が走る。
 深雪ははじめて女の悦びを体感した。

 翌朝、通勤着に着替える前にシャワーを浴びる。
 裸体で藤原康介の触れたかつらをかぶり、毛皮のコートをはおり、ワインレッドのルージュをひき、バスルームの鏡に全身を映す。
 スゴクヨカッタ……。


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