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【小説】コーベ・イン・ブルー No.3

    

 港湾専用地区・ライナーバース・PL13。
 海にせり出した埠頭の中ほどに建つ、上屋(貨物用倉庫)の二階にあるオフィスからは、ポートピア・ランドの大観覧車が視野に入る。
 海人は天井までとどくガラス窓に目を向ける。
 眩い。
 時間の停まったような陽のきらめきの下に、停滞した海が見晴らせる。
「数日間も、無断欠勤したあげくに、やっと出てきたと思ったら、警察の事情聴取を受けたですって――どういうことなの。シラっとしてないで、キミを担当している、私に、そのムネを断ってから、席につくのが常識じゃないかしら」
 断りを入れるも何も、オフィスの端っこの席を間借りしているだけの代行業者が、なんで代理店の女課長にイチイチお報せしなくちゃならない。

 海人はよそ見をし、彼女を見ない。
 すでに承知しているはずなのに、なぜ、責めるのか。
 タテ前の世界のシステムが、海人には煩わしい。

「何事かあった、そのときに、電話をかけるくらいの気遣いはないの」
 船舶電話があればいいが、勝手に使用できるのは、自分がかかわっている船だけだ。
 警察車両なら無線も使えるが、代理店の車両には、そんな便利なものはついていない。
「説明してくれないと、業務全般に支障をきたすわ」
 コンテナバースに公衆電話のないところがほとんど。
 借りるとすれば、他社の上屋の事務所しかない。代行業の海人を、軽く見ている連中にへこへこ頭を下げろと言うのか。
 日常的に現地を知らない、クソ女に何がわかる!
「長くこの仕事をしたいと思うんだったら、責任を第一に考えてもらわないと――先が思いやられるわ」
 小言を言うとき、エラの張った顔がいっそう角張る。
 海人は将棋の〝角〟を思い出す。なんだかんだ言っても、斜めに行けるので融通がきくのだ。

 弁当をかならず持参する彼女には夫も子供もいる。そのせいか、世の中のすべてを頭の中に積めこんだ物言いをする。アノときは、海人の分身を下半身に詰め込むが……。ひと月ぶりだったので、疲労困憊した。
「ヨソの国のようにバカンスだの昼寝だのと、のんびり過ごせないのが、神戸港の現状なのよ。働いていればわかるでしょ。株価なんて、カンケーないのよ」
 周囲に私語が起きる。冷ややかな視線を、メガネのレンズごしに感じる。
 スペースのかなりあるオフィスだが、窮屈で身のおきどころがない。視力はいいが、メガネをかけるのは、目の色はもちろん、感情を読み取られたくないからだ。
「どういうことなの?」
 課長職のエラ女は、無表情の海人に弁解させようと、声を高くする。
「どうして、キミが、○七時で間にあうのに、一時間も早い○六時に、PC5にいたのよ。おかしいでしょ?」
「早いとまずいんですか」と、皮肉ったつもりだった。

 港島署でも、その一点を追求された。
 任意の事情聴取なので、取調室ではなく、隣りの参考人室で問いただされた。
 事務机をはさんで、椅子があり、長谷川と名乗った女刑事は、海人と向かい合って座った。
 住所氏名、連絡先など、私的なことをくどくど訊かれた。
 男の刑事は腕組みをして、事務机の横に立ち、海人を見下ろす。 
 入り口に近い事務机とセットになった椅子に腰かけている、小柄な制服姿の女警官は、ひと言も聞きもらさないようにと、黒い厚紙の表紙の書類にボールペンを走らている。
「ロイは、友達でしたから、気になって、ひと晩中、捜し回ってたんです」
 海人は気だるげに言う。
「ひと晩中ですか」と、長谷川刑事。
「いけませんか」と、返す。
「もう一度、確認します。溺死した彼と午前八時に、プレジデント・ラインのコンテナ船上で会ったあと、彼からなんの連絡もなかったのですか」
 と、彼女が言ったとき、
「ぼくねぇ、耳がいいんです。ロイは、女の子と遊ぶのがめちゃくちゃ好きやったんスよ。ロイが前の航海で知りおうた女の子に、もう一回、会いたいゆーから、ロイに代わって電話をかけたんスよ。年末やったから、ほんの二ヵ月前のことですワ」
 ロイの遺体を見ても平然としていた長谷川刑事の目の色が、揺らいだ。
 よく見ると、目の印象が一瞬ごとに変わる、猫目女だった。
 女刑事の声を聞いたとき、船舶電話越しに聞こえた声を思い出した。冷ややかで、硬い声。吐きすてるように、彼女は言った。
「ロイ・ガードナーなんて名前のガイジン、知るはずないでしょ。電話のかけまちがいです。もう一度、かかってくるようなことがあったら、ケーサツに言います」
 海人はメガネの真ん中を押し上げながら、
「出港前に、その彼女に、もう一回、電話をかけたんやないのかなァ。電話番号を書いた紙が、ポケットに入ってませんでしたか。ボストンバックの中も調べてみたらどうです?」
 そのメモはいま海人のスケジュール帳にはさまれている。
 もし彼女がその電話を手放していても、NTTで調べれば、彼女だと特定できるはずだ。それに、ロイの名は言ったが、ガードナーの名は口にしていない。

「――女の子まで、笑ってるわよ」
 エラ女は、そう言えば、海人が折れて謝るとでも思っているのか?
 彼女の席に近い、事務屋が、お追従笑いのにじむ声で同調する。
「服部クンには、形式ばったことはむいてないんですよ。ぼくらとちごうて、スマートですからね。英語なんかも発音がちゃいますもん」
 社則に縛られたくないから代行業に就いているとわかっていて、英語に苦労している事務屋は、髪こそ黒いが毛色のかわった海人を外様あつかいして羞じない。
 学歴らしい学歴のないことも、侮蔑の対象となる。
「もう、いいわ。先に言っておくけれど、事情聴取にかかった時間は勤務時間と認めませんからね」
 エラ女は肘をまげ、腰に当てていた両腕を、両脇にそわし、顎をしゃくった。

 イヤならクビにすればいいと、海人は思っている。
 できっこないとわかっている。
 都合のいいときだけ、性欲の捌け口の相手をしてくれる、若い男はそうそういない。勤続二十年を過ぎようかという大年増(オバハン)は、海人にまたがり、いまにも息が止まりそうな苦しげな声を張りあげながら、たるんだ腹と乳房をゆさぶりつづける――。このひと月、それがイヤで避けてきた。

 自分のデスクにリュックを投げおろすと、席の近い秀才クンが声をかけてきた。
「また、叱られましたね」
 海人はひと睨みする。
「また」を強調し、さしでがましい口を利く青二才は、去年の春、入社したばかりだ。藤原康介、二三歳。国立大学の英文科を卒業し、海外留学の経験もある。どうして、先行きの暗い船会社にわざわざ入ってきたのか、理由がわからない。
「五日間も無断欠勤するなんて、やってくれますよね。土日を入れると、まる一週間、お休みだったわけじゃないですか」
 秀才クンとは会話のテンポが噛み合わない。
「土日は計算に入れンな」
「ですよねぇ、隔週おきの土日の休日でしたもんね」

 どう説明すればいいのか、わからないけれど、事務屋とは異なる違和感を感じる。
 近頃、流行りのノーアイロンのカッターではなく、クリーニング仕様のYシャツにブランド物のネクタイをしめている。身にぴったりフィットしているスーツは、特注品。
「ハードボイルドを気取ってるのかなぁ。まさかね、服部サンはボギーのタイプだけど、『きみの瞳に乾杯』なんて、ゼッタイ言わないもんなぁ」
 デスク脇の、小さなデスクに載ったタイプライターを打つ手を休めず、秀才クンは海人を小声でからかう。
「人妻と駈け落ちの相談でもしてたんですか?」

 海人はジャケットを脱ぐついでに、デスクの抽斗から煙草と灰皿を取り出し、回転椅子の背もたれをギイギイ鳴らし、秀才クンに背をむける。十五分ある休憩時間はとっくに過ぎているが、代行業者の海人は社則を無視する。
 もし、エラ女が、文句を言おうものなら、「じゃかましい!」と怒鳴りつけ、その場で辞めるつもりでいる。そのときは特別サービス料金もたっぷりもらうつもりだ。
 金を惜しんで、一時間きっかりでラブホを出るのはよしとしよう。 
 主婦も兼業しているのだから、短い時間を有効利用しているつもりなんだろう。シャワーを浴びるのもそこそこに、四五分間、密着し、最低、二度はエクスタシーを感じないと承知しない。
 もうさ、オバハンの下で呻吟している男の身にもなってよ。

 海人は両足を開き、からだを斜めにかまえて、口元にラークをくゆらせる。
 心は波立っていない。小さな穴の開いたブイの気分だった。

 蛍光色のブイにもたれかかっているロイを発見し、通報し、亡骸を目にしても、ひと粒の涙も出なかった。兄弟のように親しくしていたのに、泳いで引き揚げようとも思わなかった。
 海人と恵美子に縁を切られたロイは、自ら死を選んだと思ったからだ。ロイには、近しい親族がいなかった。
 ヤクザにかかわって何かあったとしても、それはきっかけにすぎない。

「――人妻は手いっぱいスか」
 秀才クンは海人のささくれだった神経を、さらに悪化させる。

 この狭い神戸村に、亭主持ちの美女がダブついてるとでも思っているのか! 海人はその手の美女に出会ったことがない。たまにいても、そいつらはお高くとまっていて、「セックスなんて、けがらわしい。わたくし、夫にもむやみに触らせませんことよ」と言いたげな態度をとる。
 東灘区から芦屋にかけてのリッチな連中は、標準語で話す。

 一度、引っ掛けて、エライ目に遇った。
 五十はとっくに過ぎている女は、そこらのラブホテルですませるエラ女とちがい、「エクシブ」とやらの会員なので、そこに一泊しようと言ってきかない。琵琶湖の傍にもあるし、徳島県にもあると言う。
 亭主にバレないのかと、こっちが心配しても、「あちらはあちらで、お相手がいらっしゃるの。ただね、いっしょのホテルになるのは、おイヤでしょ? わたくし、お相手の顔を見たくないの。だから、早めにご予約したいの。どちらになさる?」
 泊まりたくねぇンだってば!!
 金持ちは基本、ビンボー人に忖度ができないと、海人は思っている。子供の頃から何不自由なく育ってきているので、他人の都合などおかまいなし。夫や子供の世話は、お手伝いさん任せなので、おのれを中心に世界が回っている。
 世間サマと過去に押しつぶされそうな海人と恵美子とはおお違い。

 デキる女を自認するエラ女が、海人の目の前に回りこむ。
「シーランドの書類よ。あと二時間で出港だから、コンテナバースのPC1に行ってくれるわよね?」
 彼女は書類を手渡し、海人に背をむけ、たれ気味のヒップを揺らしながらデスクの間を闊歩する。
 ヒールの踵が床を打ちつけるたびに、くるぶしのない太い足首の肉襞が上下する。
 オバハンの行進曲(マーチ)が聞こえてきそうだ。
「なんなんですかねぇ」と、秀才クンは肩をすくめる。「クリアランス(通関業務)の手続きは、ぼくの係なのになぁ」
 書類の隅がわずかに折ってある。北野町にある、いつものラブホに、夕方の六時にこいという命令も兼ねている。
 ロイに渡す金を用立ててもらった二日前の夜、お相手をしたばかりなのに。まずいどんぶりメシを、立てつづけに二杯、食えってか。
「今日はPC1であがります」と、海人はエラ女の背中に言った。
 エラ女の足がピタリと止まった。「あら、そう」

「ぼくが行きます」と、秀才クン。「怒られるかな」と言いつつ。

 現場に近いオペレーション・ルームから通関手続きを取り扱う、このセクションに移動してきた当初の秀才クンは、戸惑いが表情に表れていた。額に汗がにじみ、挙動不審だった。
 ムリもない。
 タテ前では、課長職のエラ女のアシスタントということになっているが、エラ女は、なぜか、秀才クンを毛嫌いし、ときどき喝を入れにやってくる、商船ビルにいる部長のしかめっツラにもかかわらず、秀才クンを使わない。ろくに口もきかない。
 ワカラン。
 社員ではない海人は、社内の内部事情に疎い。
 秀才クンはビジネス英語に長けているだけでなく、タイプも海人より格段に速い。通関手続き書類に誤りがない。
 海人の比ではない。
 正攻法では、とてものこと太刀打ちできない。だからといって、エラ張り女のご機嫌をとっているわけではない。しかし近頃では、部外者の目には、海人は秀才クンの使い走りに映るにちがいない。
 ヨルヒル分かたず、入港許可証を携え、船から船へ飛び回るメッセンジャーボーイのてい。
 もう一人、雇われている代行業者は、自宅を事務所に使っているので、海人と出くわすことはめったにない。

 また仕事かと思うと、空気のぬけた使いふるしのブイの気分になる。
 雇われて二年目も近くなると、肺筋力が弱まるのか、すぐ背中が丸くなる。

「骨休みのしすぎですよ」
 左右に揺れ動く瞳が頭の上にきている。
「神聖とは言いがたいですけれど、ここは一応、職場ですからね。気を引き締めてかからないと――」
 レジャーゾンとは異次元世界(パラレルワールド)だとでも、秀才クンは言いたげ。
「気晴らしに、同じライナーバースにいるリベリア船籍のバラ積み船に、一緒に行ってもらえますか」
 秀才クンは、明細書を海人の机に投げてよこす。
 出港する外航路の経費に誤りがないかチェックし、コンピューター・ルームに回さなくてはならない。
「チェックはすんでますから」と、秀才クン。
「おれの仕事やない」と、断る。
「んなこと言わずに、頼みますよ」
「おれに、コンピューター・ルームへ行けってことか」 
 語気が荒くなる海人に、
「定刻通りに出港できるかどうか、バラ積み船のホーマン(荷役の現場監督)に確認してもらえますか」
 お願いしますよ、服部サンと、秀才クンは何げに言うが、
「だったら、そっちが、コンピューター・ルームへ行けよ」
「アイアイサー」
 秀才クンは明細書をもって出て行く。
                 
 海人は受話器を肩と首ではさむ。プッシュボタンを押す。担当を任されたシーランドのワッチマン(警備員)に電話をかける。ホーマンの呼び出しを頼む。

 駿足でもどってきた秀才クンは、海人のデスクに両手をついて、
「バラ積み船のホーマンに電話してもらえましたか?」
 海人は電話口を掌で押さえる。
「そっちのスラベイ(荷役会社)に電話しろよ。おれはシーランドで手いっぱいなんだから」
「スラベイに電話するの、苦手なんです。用件を切り出す前に、怒鳴り声が返ってくるから……」
「わざとゆーてるんか。おれに何もかもやらせる魂胆か」
「ぼく、あの、ほ、ほ、ほんとに恐いんです」
 海人が秀才クンを見あげる。秀才クンと目が合う。媚を売るような怪しげな眼差し。
 海人はバラ積み船のホーマンに荷役の進み具合を確認し、スラベイに電話をかける。
 時間が遅れている模様。
 渋る相手に荷役を急がせる。作業員の頭数を増やすよう依頼する。用件をすませると、電話を切る。
 船がお客さんの仕事の場合、悠長に見えてそのじつ、時間との追っかけっこなのだ。

 海人は余った手で鉛筆を削る。三センチはちぢむ。よほど捨てようかと思案したが、消耗品リストに同じ名前がつづくのも気がひける。
「おまえなァ」
 海人は秀才クンにはじめて、おまえ呼ばわりした。
「おれを、コキ使う気ィでいるんやったら、黙ってへんぞ」
「ち、ち、違います」と、立ったままの秀才クンの声が震えている。
「はあ?! 言い訳もたいがいにせぇよ。おまえの仕事を押しつけるな」
「ぼ、ぼ、ぼくは、書類を書く仕事しかできないんです。それで今日、思い切って、服部サンと仕事をしてみたいと思って……」
「おれを、クビにして、おまえに仕事を引き継がせる魂胆なんかーーこいつにアレがつとまるんか」
 二人の話し声がエラ女にも聞こえたようだ。

「キミたち、日が暮れるわよぉ」
 エラ女がこっちへくる。
 二人の男を見比べながら、ささやく。
「本来なら、とっくの昔に、独り立ちしてないと、いけなかったんだけど、彼、現場の手荒い環境についてけないのよ」
「――まさか」
「そのまさかなの」
 秀才クンはうつむき、穴が開くほど、手にした書類を見つめている。
「いままでどうしてたんですか。おれが休みの日とか」
「みんなで手分けして、なんとかやってきたのよ。でも、服部クンが立てつづけに休むもんだから、みんなのストレスがハンパなくって――このご時勢だし」

 巷でいう好景気と港の景気は真逆だった。
 岸壁手数料の値上がりプラス海運不況のダブルパンチで、どこの船会社も港内に停泊する時間を短縮しようと躍起なのだ。
 二時間足らずで出港する船さえある。
 乗組員はろくに地面も踏めない。
 120分あれば、人待ち顔の女にアタックし、ベッド・インできなくないけれど、ただでヤらせる女がコンテナバースの近辺に生息していない。
 いつの間にか、アメリカ人目当てのバーも姿を消した。
 海人が十代の頃、ドルは強かった。
 彼らは気前よく金を使った。チップも弾んでくれた。

「バラ積み船と差し替えで入ってくる、韓国船の荷役が夜中までかかるかもしれないわねぇ。久しぶりに出社して油断してると、徹夜になるわよ」
「シーランドのコンテナ船を見送って、その足で帰らせてもらいます」
「そうはいかないわよ。何時に出てきたと思ってるの!」

 船の入出港に左右される勤務時間は、深夜にずれこむこともしょっ中で、男子社員はオフィスの仮眠室に泊まる日も少なくなかった。
 表向きは、夜間の荷役はないとされていたが、コンテナバースとライナーバースに限っては、出港時間を速めるために、時間外手当てを出して、ガントリークレーンを動かしている。

「藤原クンも――」と、エラ女は、秀才クンに向き直り、「そろそろ慣れてくれないと、配置転換になるわよ。いま二度目だから、三度目もあるかもよ」
「うっ、うっ、受渡し状のタイプは仕上がっています」と、秀才クンは真っ青。
「韓国船は、おれの担当やない」と、海人は拒む。
 エラ女は独り言をつぶやく。「バラ積み船だけど、もう一度、たしかめるのは、もうすこし、あとでもいいかなァ」
 出港船の六割は、夕方に殺到する。予定通りに荷役がすすまないと、出港時間はどんどんズレこむ。入港船は朝方に集中する。どちらの時間帯も大忙しになる。
 エラ女の「あとで」は、「いますぐ」と同義語である。
「もっ、もっ、もう一回、訊いてみます」と秀才クン。
 海人はあらぬ方角を見て欠伸をかみころす。
 エラ女の仕返しが恐くて、言いなりになる気は毛頭ない。
 秀才クンは書類を片手に、プッシュボタンを何度も押し間違える。
 船舶電話の番号は停泊するつど、決められるので暗記できない。
 そのつど、メモを見なければならない。
 秀才クンは顔面を真っ赤にし、いまにも泣きだしそうだった。

 ふと秀才クンが憐れになる。緊張すると、吃音症状が出るらしい。

 海人は、バラ積み船の荷役の進捗状況を再度、確認する。

 秀才クンは涙と鼻水をいっしょにたらした。
 エラ女は逆上した。「それが先週いっぱい、二人ぶんの仕事をコナしてきた上司にむかってとる態度なの!」
 目前の案件を将棋倒しに処理しなければ気のすまないエラ女からすれば、秀才クンの仕事ぶりは、自分の番なのに倒れないドミノの駒にひとしい。
「ヤル気があるの、ないの!」
「受渡し状のタイプは仕上がってますよ」
 海人は口出しすると、秀才クンの手から書類をつかみ取り、ライナーバースのどこなのか、見る。
「オペルームに用事がありますから、PL3の上屋まで行ってきます」
 空港の管制塔にあたるオペルームに立つと、荷役の進み具合がひと目でわかる。
 エラ女の細い目が光る。
「ホーマンに電話を入れるよりも、自分の青い目でたしかめると言うのね。能率的よねぇ」
「おれの目、青やないんですけど――色盲とちゃいますか」
 色情狂のエラ女のペースで働くほどあほらしい話はない。
 一夜にして船主を失い、経営者の移り変わるご時世なのだ。
「いいわよぉ。ただし、手ぎわよくお願いするわね。文明の利器を無視するかぎりは、空を翔んでくくらいの超能力を発揮してもらいたいものね」
「スーパーマンにはかないませんけど、オールナイト勤務には慣れてますから」
 海人の口元がほころぶ。
 エラ女はにこりともしない。
 事務屋のわざとらしい咳払い。
「ぼっぼっぼっぼっ……」
 秀才クンは自分の頬を掌ではたき、片足を床に何度も打ちつけた。
「ぼっ、ぼっ、ぼくのせいで、ケ、ケケ、ケンカしないでください」
 弾みをつけないと、彼は話せない。
 だから、彼のデスクに電話機がないのだ。
 海人はジャケットを着込み、席を立つ。

 電話が鳴る。

 おどおどする秀才クンに代わって、エラ女が受話器をとる。
「バラ積み船のホーマンからいい報せよぉ」
 かん高い声が、海人の背中を刺す。
「税関の取り締まりがあったらしいの。ミスシップした船員のなかに、情報提供者がいるようだから十中八九、船内のどこかに良からぬ物を不法所持しているわね。よかったわねぇ。これでまた陸揚げが遅れるわ」
 荷役が遅れるどころか、処分によっては、出港を止め置かれるおそれがある。
「急ぎの用もなくなったんだし、キミたち、ポートピアランドのジェットコースターにでも乗ってくれば、どうなの」
 エラ女は応酬し、肩にとどく髪を耳のうしろにかきあげる。
 思い出したように小さく笑い、
「行ってらっしゃいよ」
 きびすを返した彼女の後ろ姿に、勝ち誇った陰影がはっきり見える。
 海人は、秀才クンに声をかけ、ドアにむかって大股に歩く。
 エラ女を追い越す。
「自覚が足りないようなので言っておくんだけれど、あと一日、無断欠勤がつづいていれば自動的に契約終了になっていたのよ。もっと用心深くなりなさい。税関職員は甘くないわよ」
 頭の中がたいまつのように燃える。

 サングラスをかけ、人影のない、ただっ広い埠頭を、オフィスのダットサンで飛ばす。
 秀才クンを助手席に乗せ、ポーアイ内の税関詰所へ。
 今さらどうなるものでもなかった。
 が、一応、どの程度の処罰を受けるのか、耳に入れておく必要があった。荷役関係の他、船員の乗船状況のこともある。
「大目に見てもらえれば、いいんですけど……」
 考えこむ秀才クンに、海人は、
「心配性なんやな」
「服部サンみたいなふうには……ぼくにはムリです」
「居直ったらええンや。そうもいかんこともあるけどな」

 平屋の小規模の建物のドアを押した。
 サングラスをいつものメガネにかけ直し、うつむきかげんに入る。 
 視線を伏せる。
 目の色と表情を隠す。
 低い姿勢で口元に笑みをたたえて、長いカウンター内の税関職員の前へまかり出る。税関職員は時として、おなじ港内で働く港湾関係者にたいして尊大な態度をとる。数人が事務机に座り、電話をかけたり、港湾内の拡大地図の前で、二人の職員が真剣な顔つきで話し込んでいる。

「お世話になっております。このたびはご迷惑をおかけいたしました――」
 海人が代理店名と船名を言っても、受付の女性職員は口ごもり、困惑した顔つきでいる。
 海人は、言葉たくみに、コトの経緯をたずねる。
 女性職員の遥かうしろで、ふんぞり返っていたおエライさんが椅子から立ち上がり、海人にカウンターの端に寄れと人差し指で指し図する。
 秀才クンは緊張のあまり、ロボットのようにぎくしゃくした歩調でついてくる。

 おエライさんは、うん、ん、んとまず喉を鳴らし、
「あんなァ、東南アジアの船員が、ポルノビデオを所持してたんや」 
 どもならんと、横柄な口調で言ったすぐあとでつけ足した。
「むろん、シール・ロッカー外や」

 外国船籍の場合、船主および船長が日本人であっても、船内には治外法権が適用される。ただし、輸入禁止品目にあたるポルノビデオに関しては、所定のロッカーに管理し、税関がシールで封をする。

「アンタんとこの監督不行き届きや。本人はしまい忘れただけやと言うとるが……」
 おエライさんは腕組みをし、上陸のたびに知人に売りさばいた形跡がある、これは由々しき事態である云々。
「くっくっくっ……」
 平身低頭のていで耳を傾けていた海人は笑いを堪えることができない。子供の頃から、笑ってはいけないと思えば思うほど笑ってしまう性癖が、海人にはあった。
 秀才クンは、海人のジャケットの裾を、指で引っ張る。
 とうとう吹き出してしまう。

 法のおよぶ日本船さえ、本番ビデオのノーカット版が半ば公然と娯楽室においてある。
 情報に誤りがあったのだ。
 船内をくまなく捜索しても、捜し物は出なかったにちがいない。

 笑いのとまらない海人に代わって、秀才クンが進み出る。
「申し訳ございません。彼は入社して間もありませんので、コトの重大さを充分に認識しておりません。失礼の段、重ね重ね、お詫び申し上げます」
 深々と頭を下げる秀才クンに、おエライさんは海人にむかって顎をしゃくり、
「目立つ顔やからな、なんべんも見かけとる。最初は、こいつが運び屋かと思たくらいや」
 秀才クンはさらに頭を低めて、お伺いを立てる。
「荷役を再開しても、よろしいでしょうか」
「まあ、ええやろ。初犯やし、組織との繋がりはなさそうやし、本人もおおいに反省しとるしな」
 彼ら、お堅い税関職員もその種のビデオを鑑賞している、おそらく。
 個人で愉しむ段には、お目こぼしにあずかるが、それを他人に分け与えると罰せられる
 海人は、秀才クンとおエライさんの話のやりとりの間中、鳩が鳴くように嗤った。

 表に出ると、背伸びをした。
 どれほどヒヤヒヤしたかと嘆く秀才クンを、ライナーバースのオペルームに送って、海人は、PC1へ急ぐ。


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