【エッセイ】蛙鳴雀躁 No.13
物心ついた頃から目と鼻の先に4軒の映画館がありました。封切り映画を上映する1番館ではありません。どれも3番館と呼ばれる映画館です。1軒は、東映と大映。もう1軒は洋画専門。他の2軒は、日活と東宝と松竹だったと記憶しています。
テレビのない時代だったので映画館はいつも大にぎわい。
煙が立ち上り、デンデンデンデンと効果音が入り、巻き物をくわえた派手な和物の衣裳のオジサンが大きなガマガエルに乗って印を結び、呪文を唱えると、あらふしぎ敵が倒れる映画や、チャンバラがはじまると、黒頭巾に着流しのオジサンが馬に乗って駆けつけ、悪者をバッタバッタと斬りまくる映画くらいしか覚えていませんが、大人も子供もヤンヤの大喝采。
イタリヤ映画の名作「ニューシネマパラダイス」を観たとき、あの頃とあまりに似ているので、どこの国も同じだったのかと懐かしく思いました。
ところが――、
SF小説を書いたつもりでいたところ、自分ではまったく意識していませんでしたが、アオガエルとあだ名される少女が、印を結び、呪文を唱える場面を書き、独創的だと勝手に悦に入っていたのですが、なんのことはありません。
東映の映画で観ていたのです。
もちろん、初代ゴジラくんも観ました。
図体のわりに、歯が小さくて、イボイボの顔。恐いと思うより、なんてかわいいんだろと思いました。
しかし、いつの頃からか、日本映画を観なくなり、外国映画ばかり観るようになっていました。結婚するまでつづきました。もはや親を騙し、小遣いをむしり取るわけにもいかず、夫と私は、土曜日になると、低料金のオールナイト巡りをすることに。
その頃には、洋画を上映している映画館は廃業していましたが、3館のこっていました。家にもっとも近い1館をのぞいて、商店街に面した映画館は現在のものより、収容人数は倍近くありました。
高倉健の「花と竜」「昭和残侠伝」「唐獅子牡丹」、市川雷蔵の「平家物語」「眠り狂四郎」「陸軍中野学校」、勝新太郎の「座頭市」、菅原文太の「仁義なき戦い」。
オールナイトは夜10時過ぎに開演なので客席はいつも閑古鳥が泣いていましたが、どの作品も目からウロコでした。
差別用語云々のない時代だったので、台詞にも迫力がありました。
BS放送で、当時の映画を見るのですが、暗い映画館のスクリーンで観るのとでは、違って見えます。
ハリウッドやヨーロッパの映画にかぶれていた私は、高倉健の「唐獅子牡丹」を観たとき、「上等じゃねぇか」という棒読みの台詞とともに諸肌脱ぎになったときの麗しいお姿に魅了されました。
夫が言うには、60年代の学生の頃、新宿で、高倉健の映画が上映されると学生が大勢、押し掛け、見おわったあと「健さーん」と呼びかけ拍手喝采していたそうです。
神戸の下町に住みつづけているので、その筋の方は、暴対法が施行されるまで風景の一部でした。通りからちらりと見える組事務所には提灯が飾られていました。どの人もひと目でそれとわかる服装と髪型でした。
パンチパーマに夏ならアロハシャツ、冬は皮ジャン。幹部は白か黒のダブルのスーツが定番。オールナイトへ行くと、まばらな観客のほとんどが、その方たちでした。両脚を前の席に乗せて観ていらっしゃるのです。濡れ場満載の「八月の濡れた砂」でさえ皆さん、つまらなそうでした。女性は私ひとり。喜んでいいのか、悪いのか、いやな思いをしたことは1度もありません。
後年、ある方の出版記念パーティで、同じテーブルになった男性が黒のスーツで決めてらっしゃいました。やや小柄ながら、無駄のない所作と強い目の光から、なんとなく一般人じゃないとわかりました。
パーティのあと、ロビーでお茶を飲んでいると、女性をいく人か誘って私のテーブルに来られました。
お話すると、子供の頃、ご両親を亡くされて、兄弟を養うためにヤクザの道に入ったそうです。なんとか食べられるようになり、事業を拡大し、いまは悠悠自適の暮らしのご様子。しかし、小説を書きたくて同人誌を立ち上げ、自作を載せておられるとのこと。
いろいろ話してくださいました。
ヤクザ映画の中で、白い盆の博打の場面には、エキストラは本職の方がされているとおっしゃっていました。上半身、裸で、白いさらしを巻いたオジサンたちです。
ほんまかいなと半信半疑で相づちを打っていましたが、某有名作家が京都で土地を買いたいが、いい物件はないかと相談されたという話や、高倉健さんと親しいという話になってくると、眉ツバだと思いつつも、「健さんは、ビールの宣伝してるけど、アルコールは一滴もダメなんですワ。世間では、無口やゆーことになってるけど、コーヒー一杯で何時間でもしゃべるんです。イメージがついてつらいて、本人が言うてました」。
ヤクザで思い出しましたが、母は気丈な女で、近所に住むヤクザ稼業のオジサンが酔っぱらって、うちの家に怒鳴りこんできたことがあったのです。私は小学校にあがる前で、どういう経緯で、包丁をもったステテコ姿のおっちゃんが玄関の上がりかまちに座って、スゴんでいるのか、わかりません。それでも、興味津々で母親のうしろにくっついて見ていました。
海軍にいた父はなぜか、奥の部屋に隠れて出てきません。
「どないしてくれるんじやーっ」
おっちゃんは怒鳴ると同時に、うちの畳に包丁を突き立てたのです。
「オヤジだせーっ、女じゃ、話にならん」
正座した母は微動だにせずに、
「アンタに会わすほど、うちの旦那は安もんやないねん。帰ってんか」
と言い放ちました。
このあと、おっちゃんの奥さんが迎えにやってきて、なんとか事なきをえましたが、おっちゃんは、あとで言ったそうです。
たいした女やと。
土地柄もあって、ヤクザ屋さんとの思い出はいくつもあります。
古き良き時代だったとつくづく思います。
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