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ボーイ・ミーツ・ボーイ (7/8)

  7 ほかの人間のことは私たちはもはや興味を引かれなかった。
        バタイユ

 世間サマなんて、目に見えないものを怖れるほどジジィじゃない。女の子より、ジュンが好きというだけなんだと思いこもうとした。
 黒の透き通るスカーフは、おれの部屋の机の引き出しにある。燃やすべきかもしれない。
 決心がつかない。

 悩める男子の心の揺れが、仲間には伝わるのか、おれの席を真ん中にして、ぐるりを取り囲む。
「親には言えないよな。男と寝たいなんてサ」
 保田は机に肘をつき、ワケ知り顔に言った。
 関東弁が耳障りだ。
「表現が露骨すぎひんか。まだそこまでは……」
 おれは連中の顔色をうかがう。こいつらが、ひょっとして世間サマだったりして……。万が一、女子高生殺しの犯人が、ジュンだと露見すれば、彼らが真っ先におれを糾弾し、非難するだろう。ジュンの真心を踏みにじったおまえのせいだと。
 ジュンはどっちに転がろうと、被害者でありつづける。
 しかし、単細胞のおれの頭を、米つぶほどの疑惑がよぎる。
 もしかすると、ジュンはおれを真犯人に仕立てる腹づもりじゃないのか!? すでにおれは、自分が犯人だと、三輪に宣言している。

「日米のガードラインやないけど、基本的には合意してますよ」
 LGBT法案も通過したことやしと言うのはマサ。怪物の顔が政治家に見える。
「カンケーないやろ」
 とおれが言っても、マサは坊主頭を突き出し、
「ただ、気色悪いンですワ。想像するとなんとなく――」
 おれだって思わぬわけではない。複数の女の子とアレをしてしまった後では、その思いはハンパじゃない。いくらアレとコレはちがうと思っても、コレを突破する根性がもてるかどうかだ。
 第一に、どうやってイイキモチになるのだろう。おぞましい光景をちらほら連想してみたり……。
「いっぺん、ホカで練習してみたらどうやろ?」と木村。
「ホカてなんや?」 
 疑問を投げかけるおれに、柔道部の遠藤は事もなげに言った。
「後輩の部員でためしてみたらええ」
「そうそう。寝業がいちばん」

 1人立ったままのバラくんがうれしげにほざいた。地球の果てに消えたはずの三輪はなぜか、陣営の一員となって今もおれたちの回りに出没する。
「きみには真剣に学んでもらわないとね。気難しいジュンにぴったりの理想的な位置関係でないと、ぼくは同意しかねる」
 おそろしい寝言を言う。
「おまえにそんなこと言う権利あるんかッ。だいちやな、男と男やねんぞ。ぴったりいくわけないやろ。ガンダムロボットやないやぞ」
 ずっと無言だったケサマルがひと言、「ガンダムに余計な突起物はない」と言った。
 三輪は制服のポケットに片手を入れると、
「きみサ、稲垣足穂。知ってる?」
「食うたことない」
 保田がこの時とばかりに、
「『少年愛の美学』って本を書いた人だよ。有名なんだぜ。そういうことに興味のあるやつにはバイブルなんだけどなぁー」
「宗教か」
 しらけるおれに、三輪はふっと鼻で笑い、
「PとAに関する考察が詳細に書かれているから、目を通しておくんだね。いや、熟読すべだ」
「読んでできるんやったら、体育に実技はいらん」
「きみに忠告しておくよ」
 三輪は宙ぶらりんの残った手で、おれを指差し、
「すでにVを経験してしまったきみに何を言っても無駄だと思うが、もっと頭と体を使って行動することだね。美の化身であるジュンにふさわしい男になってもらわなくては、このぼくが真実の愛を諦めたかいがない」
(あきらめた……どういうことやねん?)
「ライバルじゃないって、ことだよ」
 三輪は重ねて言った。

 その時だった、話題の中心人物が登場したのは。
「なに、どうしたん? なんの話?」
 ジュンは満面の笑みでやってきた。
「数学の宿題やったら、ぼくのノート見せたげるよ」
「ああ、もったいない!」
 マサが突然、嘆いた。何を言うのかと思えば、こんなに男前がずらりとそろっているのにだれひとり、その道の経験者がいない。
「残念や、もったいない」と言うのだ。
「指導できるやつがおらん、いうこっちゃな」
 遠藤の言葉に皆、落ち着きの悪い顔でうなずいた。ジュンひとり、教会でゴスペルを歌う少年みたいな清々しい顔をして笑っている。
「ジュン先輩は、天使です!」とマサが讃えた。
「そんなぁ、ぼくなんて、チビだし、特別なところなんて、ひとつもないよ」
「経験の有無については、ぼくは除外してもらわなくては」と三輪が言った。
「おぼっちゃまは、だまっとれッ」とおれは怒鳴った。「はじめっから、おまえなんか、はぶいとるワ。あほんだら!」

 罵倒されても、三輪は、体育科の教室から出て行こうとしない。
(こいつの神経は、どないなってんねん!)
 もっとわからないのが、ジュンだった。
「ミークン、三輪くんに失礼だよ。みんな友達なのに」
「友達になった覚えなんかない」
「ジュン」と三輪は呼びかけて、「気にしなくていいよ。陸上の才能もないし、他にこれと言った取り柄もないんだから、ぼくは毛虫に刺されたくらいの気分だからね」
「毛虫は刺さん」とケサマルは言った。
「だな。踏み潰されるだけだもんな」
 保田がうなずいた。こういうの、同調圧力というのだろうか?
 毛虫に格下げされたおれは、なんとしても、三輪の鼻をあかしてやらねばと決意した。
 LINEで密かに、情報を共有する。

 放課後、予備校に行くジュンと三輪を見送って、校門で待ちかまえているサキを適当にあしらって、ぞろぞろ駅に向かった。

 制服じゃまずいんじゃないか、と保田はぶつくさ。こういうやつは規則と名がつけば、神のお告げのように守って、他人にも強制する傾向が強い。
 ホームにあがると、落日が車窓に反射し、まるでスペースシャトルを見るようだ。

 あらたな冒険へ。

 ――で、おれたちはまともなゲイ体験をすべく、夕暮れの三ノ宮へ繰り出すことに。もちろん、タニシや親にはナイショ。
 そろって、自主トレをサボったので、あしたがおそろしい。
「おかまショーとか、やめとこな。さぶいから」 
 おれは皆に言った。ジュリエット役のジュンはほんとうの女の子より女の子らしかったけど、女装したらいいなんて思ったことがない。
「ほな、どこへ行くねん。ガイドブックに載ってるとこしか知らんぞ」
 遠藤はそう言って腕組みをすると、四角い顔の太い眉をしかめた。
 女の子なら斡旋できるマサは、男子にまでコネを広げていない。「ダチは暴走族が多っスから、そっち系はほとんどおらんへんのです。頑張って、探してみますワ」
 マサはそう言って、口を真一文字に結んだ。
 保田は西出口の溜り場を見渡しながら、
「裏社会に精通してるンだからサ、ホントはツテがあるんだろ?」
「たしかに、オヤジは正業に就いてませんが、男気のあるホンマモンの男です。おれは尊敬してます」
「駅の構内で、揉めんとこうや」とおれ。
「いまさら尻込みすンのかっ」と木村の怒声。
(難儀やなあ)
 コインロッカーにカバンやリュックを預けた。

 夜の繁華街といっても、オトンに言わせると、震災からこっち街の灯りが半減したという。
 おれの目には、充分すぎるほどチカチカしているが、かつての東門筋は夜通し、ネオンが灯っていたそうだ。隙間カゼがどこからともなく吹いてくるのがサミしいのだと。
 と、その時、思いがけなく、かわいい男の子がおれのそばにやってきて歯をむいて笑った。
「マジっ」 
 おれはのけぞった。
「ジュンくんと比べても遜色ないでしょ」
 さっき別れたはずのサキだった。
 おれたちの学校の制服を着ている! 
「三輪くんが調達してくれたの。一緒についてきてくれたのよ」
 改札口の雑踏の中から、バラくんが再登場。
 西出口の階段を、気取りまくって降りてくる。
 どっと疲れる。
 
「キミたちって、中途半端なんだよ。適当につるんで、ほんの少しいがみあってサ。ダサいんだよ」と三輪は言った。「マジに臆病なんだと知らない犬の群れみたいにね」
 ケサマルはおれの顔をじっと見つめると、意を決したようにうなずいた。
「おれが案内するよ」
「スポーツクラブとちゃうデ」

 結局、おれたちは、ケサマルの手引きで、究極の恋愛の研究に旅立つことに。なぜか、三輪もサキもついてくる。
(なんでやねん)
 三輪のバカタレはおれと目が合うと、ざまあ見ろという顔をした。
 サキはむやみにはしゃいでいる。
「似合うと思わない? ねぇ、ねぇ、見なおしたでしょ? わたしね、気がついたの。こうすれば、トシオのお気に入りのリストのトップになれるンだって」
「いつや?」
「何が?」
 おれは制服を指さした。
「お芝居のお稽古の時よ。いつか、こんなこともあるだろうと思って、三輪くんに頼んだの。そしたら次の日、三輪くんがジュンくんと同じサイズのを、プレゼントしてくれたの。もしかすると、これ、ジュンくんのお古かもしれない」
「ネームが入ってるやろ」
「さいしょっから、なかったわよ。気になるの?」
 おれは深いため息をもらした。
「ジュンくんて、ズルイ。女の子でもないのに、女の子とおんなじ手口を使って、男の子の気をひくんだもの」
「ジュンはなんもしてないっ」 
「そこよ。男の子にはそう見えちゃうのよね。ぼくは天使だよーって、ね」
「ジュンは子供の時から変わってない」
「わたしだって、ついこの間までは、不思議の国のアリスたったわ。南川くんだって、ずっとピーターパンでいたいでしょ。わたしとセックスをしたからって何よ。べつに、おぞましいことをしたわけじゃないわ。女の子より舌足らずな男の子がいいなんて、そのことのほうがよほど自然の摂理に反してると思わない?」
 丸い目の目尻を釣り上げたサキに、思わずたじろいだ。

 子供の頃、おふくろによく言われたっけ。
「なんでジュンくんとばかり遊ぶの。ほかの子とも遊びなさい。へんよ」と。
 サキはお見通しなのだ。
「いけないって言ってるんじゃないの。ジュンくんは無垢なふりをして、南川くんをトリコにしてるのよ。2人して、永遠に子供でいようと誘惑してるのよ。南川くん自身が大人になりたくないと思っていることを知っててね。目を覚ましなさいよ」
 なんて言い返していいか……、
「おれだけが、ジュンのほんまの友達なんやっ」
「目を覚ましたからって、ワンダーランドが消えてなくなるわけじゃないわ。それに、わたし、きみのティンカーベルになれるわ」
 女の思考にはついていけん、と難儀しているところへ、いきなりジュンが姿を見せた。
「予備校は……」
「ミークンに関係ないもん」
「あー、もぉー、勝手にせえ」
 おれは地団駄を踏む。三輪が2人に連絡して示し合わせたにちがいない。
 みんなは、ニヤついてるだけ。

 ビルの立ち並ぶ殺風景な場所へ、ケサマルはおれたちを連れていく。就業時間を過ぎたビル街は、みるみるうちに人気がなくなる。一度、壊れてしまった街なので、どこか、ちぐはぐなのは仕方がないにしても、おれたちの年代と一緒で、重みと品位に欠けるのだ。
「こっちや」
 ケサマルが青黒い顔で言った。
「何が?」
 みんなワケがわからない。だれ一人として、本気でゲイの溜り場に行くなんて思っちゃいない。だって、ジュンがいるし、サキがいるんだから。
「ついてきたら、ええんや」
 つっけんどんに言うケサマルは怒っているようにも見える。
 ジュンに好意をもっているケサマルとしては自然のなりゆきかも――。

「ついて行こうよ。わたし、ボーダーラインを越えて愛し合う関係ってすごーく憧れちゃうわ」
 乗り気なのはサキひとり。
 マサはなんども路面に唾を吐き、木村は嘆息して天を仰ぎ、遠藤はボリボリと岩石のような尻をかいている。三輪と保田は倫理調査委員会の役員のような目つきで、ケサマルをにらんでいる。
 ジュンに至っては、ひと言も発しない。
(どないせえ、いうねん!)
 ケサマルはサキに言った。
「死んでも口をきくな。ええな」
「オーケー。ダーリン」
 サキは小走りにケサマルに寄り添い、腕に腕を回した。
 ケサマルは汚いものに触れたように振り払った。
 サキよりも、みんなのほうがびっくりした。
 いつもの冷静なケサマルじゃない。
「南川、おれ、何も話してなかったけど……」
 ケサマルは話しかけて途中でやめ、古びたビルの地下への階段を降りて行く――。
 地下道のような薄暗い廊下の行き止まりに灯りが見える。
 いくつか、無味乾燥のドアが並んでいる。
 なんの店か見当がつかない。
 ケサマルはみなを押し止めるように首を回して、おれたちを見た。「誤解せんといてくれな。おれがここにいる連中を知ってるからゆーて、そういうのやないって……」
「キミさ――」三輪が口をはさむ。「ぼくも含めて大勢いるんだから、そういう個人的というか、差別的な物の言い方はやめてくれないか」
「誤解を受けるぜ」
 保田はぬめりのある声で言った。
「くずくず言うなや、ムカツク」
 木村は一喝した。
 おれはいつものと様子のちがうケサマルに心なしか不安を覚えた。 ジュンは緊張した時によく見せる怯えた眼差しで、おれをじっと見上げる。
 もしかして……ジュンは……?

 扉はスチール製だった。
 ドアノブをつかむケサマルの手がかすかに震えている。
 気づいたのはおれだけだろうか。
 ケサマルはドアを押すと、
「ただいま」
 と言った。
 だれもがのけぞった。エイリアンとゴジラのラブシーンに遭遇したようなオドロキモードに突入した。
 カラオケがあるのだろう、渋い声が鳴り響いている。
 チョット待て、という間もなく、ダウンライトの照明に照らされた手狭な店にケサマルは入って行く。
 おれたちは彼の後について、店内に足を踏み入れた。

 男が2人、カウンターにもたれて、カラオケに興じていた。
 煙草を吸っているサングラスをかけた黒服の男と、見るからに気色のわるいおっさんが並んで脚の長い丸椅子に座っている。
 レスラーのような大きな身体が揺れるたびに、ふぅふぅという息つぎの吐息が聞こえる。頭はバーコードで唇が蛭のように赤い。
 サキより先に、ジュンがすがりついてきた。物欲しげな視線に身の危険を感じるのか、おれの腕をつかんで離さない。
 カウンターの中にいた、着物姿のおばさんにしか見えないおじさんがケサマルに声をかけた。白壁みたいに化粧をしていても、皮膚が枯れてふるびているのでトシは隠せない。
「お客さん?」
 ケサマルは首を横にふり、奥のテーブルにおれたちを連れて行くと、自分は足早にカウンターの中に入った。
 背後の壁一面に、ボトルがならんでいた。
「友達を連れてくるなら、先に言ってよね」
 おばさんにしか見えないおじさんはブツブツ言っている。
 座っていいものかどうか、おれたちはひと固まりになってためらっていた。昭和歌謡を歌っているバーコードのおっさんのねばっこい視線に、みな怖じ気づいていた。
 柔道部の遠藤とヤンキーのマサが肩をそびやかして振りかえると、サングラスをかけた男が親指を立てて見せた。
「何か、作るから、座ってよ」とケサマルが言った。
 四人掛けのテーブル席に、おれはカウンターを背にし、三輪と保田とサキとジュンの4人はむかい合って座った。
 入り口に近いテーブルに、マサと遠藤は腰かけた。
 照明器具を見あげながら、
「アルバイトか?」
 保田は、だれということなしに、小声で訊ねた。

 三輪はいきなりヒューッと口笛を吹くと、聞こえよがしに言った。
「だれが入ろうって言ったんだよ、こんな店に」
 おれは三輪に目配せをした。
 フライパンに具材をいれて、ひっくり返すケサマルの苦渋に満ちた横顔を正視できない。
 黄ばんだ壁を見つめていると、おばさんのようなおじさんの声が聞こえた。
 振りむいた。
「あたし、マリコ。元靖の保護者、父親兼母親」
 マリコさんはケサマルの名前を言って、高く結い上げた髪の頭をかしげた。
「年賀状をくれた南川くんでしょ。元靖と仲良くしてくれて、とっーてもありがとうね」
 マリコさんは前歯のすいた口元で、にっと笑った。
「おれのほうが面倒を見てもらってます」
「あたしがお店をしてるもんだから、きちんと世話してやれないの。でも、とーってもいい子よ。あたしの生きがいなの」
 マリコさんは、三輪と並んだジュンを見やり、
「あんたなのね、とーってもきれいね」
 マリコさんは強調したい時、「とーっても」と言うクセがあるらしい。
「南川くん、気をつけなくっちゃダメよ。きれいな花には、トゲがあるの」
 ぼくは上目遣いになった。
「ケサマルもジュンもええヤツですけど……」
「そんなこと言ってるから、身動きできなくなるのよ」
 マリコさんはカウンターを出て、テーブル横の狭い通路にしゃがみこみ、ネイルを塗った鋭い爪で、おれの額を押した。
「えっ」と、思わず声をもらした。
 マリコさんは両手に顎に乗せると、
「あたし、心配なのよ。ここまで育てて、そのへんの餓鬼に、ちょっかい出されてたまるもんですかって――」
 マリコさんはそう言って振りかえり、
「近ごろのコときたら、気遣いがかけらもないんだものね」
「言えてる」と、保田は相づちを打った。 
 三輪が形のいい眉を吊りぎみにしかめる。
 マリコさんは目ざとい。
 三輪に向き直り、
「なにがお望み? あたしのストリップ。とっーてもいいわよー」 場違いだと、マリコさんはおれたちに言っているのだ。
「やめろよ」
 ケサマルの尖った声がした。
 マサはカッカッカッと笑い、急いで口を閉じた。
 
「ぼくたちはケサマルくんの友人としてお邪魔したまでです」
 三輪は挑発的な口調で言った。
「あんたみたいな男の子がこの店にいたら、贅沢も思いのままよ。いいひと紹介しようか」
「マリコさんて、お節介なんですね」
 サキが口をすべらせる。
「お黙りっ、ヒヨッコ。わかったような口きくんじゃないよ。あんたみたいな出しゃばり女がいるから、男がダメになるんだよ」
「ダメになんか、してません!」
「まあまあ」と、サングラスの男が2人の口論をやめさせた。
「マリコさんのせいで……ケサマルくんの悩みは増してるように見えますけど……」 
 サキは口ごもりながら言った。
 マリコさんは立ち上がり、
「この子を、どこに出しても恥ずかしくない、イイ男に育てようとしてるあたしに向かって、なんてこと言うのさ」
 焼き飯を作っていたケサマルはフライパンを床に叩きつけた。
 店内が水を打ったように静かになった。
 騒がしいBGMはとっくに止んでいた。
 マリコさんは悲しい顔つきになった。
「ケサマル、ほんまか?」
 おれは無意味な問いかけをした。
 ケサマルはまだ何も言っていない。

 奥にいるジュンが手をのじのばし、おれの手を引っ張った。
「もう帰ろうよ」
「何言うてんねん。いま来たばっかりやろ。だいち、あいつはおまえを……」
 マリコさんの皺っぽい目元がなごんだ。よろけるような足取りでカウンターの中にもどり、ケサマルの頬に手をあてがおうとした。
 ケサマルは、「やめんか!」と怒鳴った。
 マリコさんは気にさわった様子もなく、人数分のコップにジンジャーエールを注いだ。そして、身を乗り出し、ジュンに手招きし、運ぶように言った。
 ジュンは立ち上がり三輪のうしろを回って、カウンターの前に行った。
「あんたみたいにビューティなゲイを見ると、神様っているのねって思っちゃう。ゲイがみんなあたしみたいだと、汚いだの、悪魔だのって言われちゃってもしょうがないものね」
「お言葉を返すようで申しわけありませんが」
 三輪は冷静かつ冷酷だった。
「人類史上はじめて登場する悪魔は非常に美しかったそうです。何しろ、もっとも美しい天使が悪魔になったんですから、醜い人間の男が悪魔の先祖じゃないんですよ」

 サングラスをかけた黒服の男が口を開いた。
「ほんなら、ここにルシファーが3人おることになるな」
「2人のまちがいでしょう」
 三輪は自身満々だった。
「かわいい坊やと元靖とおれや」
 サングラスの黒服はメガネを外した。短い眉といい、垂れた目元といい、愛敬はあったがインパクトのない顔が現れ出た。
「きつい冗談やな。おれとそっくりや」とマサは言った。
 黒服はサングラスを胸のポケットにしまうと、テーブルの間を縫うように歩いてきた。踊っているような足さばきだった。男はおれたちの前にくると、胸に右手を当てて高い背の腰を屈めた。
 みな、呆気にとられて見ていた。黒服はふいに顔を上げると、左手の甲で三輪の頬を打った。
 気障だったが、見事な身のこなしだ。
「顔がきれいなだけで、悪魔にはなれん。わかったか、坊主」
 三輪は唇をかんだ。
「さあ、本物の王子さまはこちらへ」
 男はジュンの手を取ると、おれを見てニヤリと笑った。
 おれの腕は男にむかってまっすぐに伸びた。握りこぶしが顔面にヒットすると思いきや、男の手のひらに受け止められた。おれは出鼻をくじかれ、一瞬、制御不能に陥った。
 体をかわす反射神経が意識にのぼる前に、男のこぶしがおれの腹をえぐる寸前で止まった。
 ジュンは小さな叫び声をあげると、黒服とおれの間に割って入った。
「いやん! ステキ」と、バーコードの蛭男が、奇声を発した。

 遠藤が男の肩をつかみかけた。
「やめとけ! そいつは喧嘩のプロや」
 ケサマルが制止した。
「あんたこそ、引っ込んでなさいよ」
 マリコさんが言い返した。
「おれの友達や」とケサマルは言った。
「自分に嘘をつくのもいい加減にしたら、どうなのよっ」
 マリコさんはケサマルに詰め寄る。
「あんたはね、腐った王子のためだったら、なんだってする気でいるんじゃないのっ」
 ケサマルはマリコさんの肩に手をおくと、
「おれはジュンのこと、なんとも思てないよ。ホンマや」

 男は両手を広げると、チ、チと舌を鳴らした。
「つらいわなァ、マリコも。いつまでも自分のそばにおってほしいと思うくせに、同じ道をたどって欲しくないんやな。トシはとりたくねぇな」
「みんなして、あたしを笑いもんにして。どうせ、あたしはババァよ。あんたたちみたいに若くないわよ」
 マリコさんを慰める言葉を頭の中で探した。ケサマルの心が読めないと悩んだことなどすっかり忘れて、おれはこの場を無事にやり過ごそうとした。
「ほな、これで」と中腰になった。
「あんたたちだって、じきにトシをとるんだからねっ。禿になって、デブになって、皺くちゃになるんだ」
 マリコさんは涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげた。
「その時になって、後悔したってもう遅いんだ。とーってもバカよ、あんたたち」
 化粧で塗りこめた顔に髭がぽつぽつと見える。人間を容貌で判断してはいけないのだが、この顔をいとしいと思うことはナミの神経ではムリだ。不屈の精神が必要になる。
「ケサマルくんの気持ちを尊重にしてあげてはどうでしょう」
 サキはおれとジュンを当分に見ながら、
「このヒトたちって、相手がだれであろうと、受け入れないんです。現実を直視できないヒトたちなんですよ。だから、まわりにいる人間を平気で傷つけちゃうの。わたし、マリコさんの気持ち、すごくわかります」
「あたしはね、家出同然のこの子を、着せて、食べさせて、学校までやってるのよ。あんたみたいに親がかりで遊んでる身分じゃないんだ。まっとうに働いているゲイなんだ。いっしょにしなさんな、このバカ娘っ」
 ケサマルはじっとうつむいている。目の下がときどき痙攣している。おれはとうとう言ってはならないことを口走ってしまった。
「ケサマル、出て行ったらええやないか。こんなうっとおしい、おっさんと一緒におることこないやないか」
「ぼくんちにおいでよ」とジュンが言った。
 おれの心臓は悪事が露見した時のように、ドキリとした。遠くない以前に、おれがケサマルに感じていた感情をジュンに知られるのではないかという怖れと、ケサマルの真意をたしかめたいという気持ちが交錯した。

「ええんか、おれが、おまえの家に転がりこんでも――2、3日、泊めてくれるだけで言うてるんやったら迷惑や」
「ケサマル先輩、おれ、一人暮らしやから、来てもろてええです」
 マサは父親に似て男気がある。バイト先も世話すると言う。
「推薦入学できたら、ここを出ていくつもりやったけど……ほんまは無理やと思う。ここの暮らしが嫌いやないって、思うから……」
 マリコさんは、「今夜は、あたしの奢りだから、なんでも好きなもん飲んで食べてもいいわよぉ。とっーても幸せな気分」と言った。

 ケサマルを残して、おれたちは店を出た。

 人通りの途絶えた街路を、おれたちは、とぼとぼ歩いた。
「どういうことなんやろ?」
 マサがぽつんと言った。
「結局、なんもわからんかったな」と遠藤。
 保田は、「大人の事情ってやつだろ」と言った。
 サキは、物言いたげにこっちを見上げたが、おれは無視した。
「茶番はおしまいだ」
 三輪は吐きすてたとたん、タクシーを停めた。
 そして、ジュンにいっしょに乗るように言った。
 三輪はジュンの肩を抱くと、自動ドアが開くと同時に重なるようにして2人で乗りこんだ。

 ジュンはやつのものなのだ。

 暗く重い予感がした。

 後を追ってきたケサマルが、その様子を見て、おれに言った。
「ろくでもない両親の家庭で育ったおれは、家出をしたもんの、あいつらの玩具にされただけやった。そやから、ジュンと三輪の間がフツーやないってすぐにわかったんや。ずっとナンチャンに話したいと――それで、きょう、ほんまのおれを見せたんや。三輪は、おれの事情を知ってたはずや。あいつはたぶん、ジュンを脅してる」
 他の連中にも、聞こえていた。
 みな、ケサマルの告白にひと言の感想も意見も言わなかった。
 話が重すぎて、頭で処理できないのだ。
 冗談なんて論外。
 センター街にむかう道筋の一歩手前で、マサが訊いた。
「ジュン先輩には、脅される理由があるんスか」
「それがなんなんか、おれは知らん」
 ケサマルは顔を歪めて言った。

 思い当たる理由は1つしかない。
 みなも同じことを思ったはずだ。

 ずっと口をつぐんでいたサキが、「わたし、知ってるわ」と言った。
 つぎの言葉を、黙らせる前に、彼女は言った。
「女子高生3人は、そろいもそろって、ジュンくんに夢中だったのよ。だから、ケーサツが彼を疑ったのよ」


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