見出し画像

【小説】嬲(なぶ)る 22 何事もナイショにすれば、波風立たず

二 ナイショグセの恩恵と弊害
 衿子の亭主は、高校卒業後、地元企業に就職した。そこで衿子と知り合い、結婚した。
 当時は、個人のクリーニング店にすぎず、従業員は2人。1人は、親父が修業時代からの同僚、もう1人は中学を卒業して弟子入りした若者。まぁ、どこにでもある街角のクリーニング店といったところだな。

 衿子は結婚後、亭主の転勤にともない、県内外で暮らすようになる。その間、2人の子どもに恵まれ、子育てに専念した。
 藤枝クリーニングを手伝うようになるのは、夫が本社勤務にもどってからだ。

 亭主、そして小学校3年生になっていた息子を送り出すと、下の娘の手を引いて藤枝クリーニング店にやってきた。
 店番をしたり、伝票整理をしたり、運転免許を取得すると配達までやるようになった。

 店は次第に大きくなり、15名体制になったころには工場を新設した。市内の中心部とはいえないが、そう辺鄙な場所でもなかった。
 用地を取得し、簡単な建物を建て、新たな機械も購入する。
 総額1億円。
 これだけの借り入れに対応できるのか。

 時代は、バブルに突入する直前。イケイケドンドンじゃないが、不況をものともしない空気があった。
 したがって、1億円くらいの借入なら、そう誤った判断とはいえないと思うぜ。

 問題は、急速に大きくなった商売にともなう経営手腕が着いてこなかったことだ。いや、経営手腕をまちがった方向に理解してしまったことなんだよな。
 やっぱ勘違いDNAなんだよね、袖子の一族は。

       ***
「こんなもの誰が食べるの!」
 母親が手作りしたちらし寿司を前に、衿子が怒声を浴びせた。
 衿子と袖子の母親は、家事が嫌いだ。いつも嫌々ながら義務として食事を作っている。心のこもらない食卓を挟んで、両親がケンカする姿を育った。

 そんな母親が珍しく丹精込めて、ちらし寿司作りに励んでいた。
「ちらし寿司がいいわ。あれ、美味しかったから」

 その日は、衿子一家と夕食をともにすることになっていた。そのリクエストが、ちらし寿司だった。
 家事の嫌いな母親でも、「美味しい」と言われればやる気が出るようだ。
 ちょうど帰省していた袖子が、感動するほどの美味しさだった。
「お母さん、料理上手だったんだ」

 しかし、衿子がリクエストしたちらし寿司は、寿司屋で出てくる、寿司ネタののったちらし寿司だった。
 
 母親の作ったちらし寿司は、ゴボウやニンジンなどを細かく刻んで混ぜ、錦糸卵をのせたもの。ひな祭りなどで出てくる、家庭味のちらし寿司だった。
 寿司ネタといえば、エビくらい。

 姉は夫と子どもたちを連れて、去った。
「お寿司屋さんで食べようね」
 子どもたちは、事態がつかめず、目を白黒させるばかりだった。

 袖子は、玄関に立ちはだかった。
「何様のつもり! お母さんがせっかく作ったものを食べられないなら、二度とうちに来なくていい!!」
 袖子の剣幕に驚いた下の娘が泣き出した。

 食べればいいんでしょ、食べれば! と言わんばかりに衿子は、食卓にもどった。

「お姉ちゃんの態度、何! お父さんがきちんと言ってよ」
「まぁ、待て。俺も目に余るところがあるけど、今はお姉ちゃんがいないと困る」

 翌朝早く、袖子は、実家をあとにした。荷造りをする袖子に気づいた母親が、父親を起こしに行った。
「お姉ちゃんをとるか、私をとるか、2つに1つよ」
 父親は、黙ったままだった。

 袖子は、母親が引き留める手を振り払って、郷里をあとにした。
 正月3日の早朝だった。
     ***

袖子も寂しかったんだろうな。変っていく姉を見ると、自分から遠ざかっていくように映った。
 2人だけの姉妹。小さいころは、クリーニング店の従業員に過ぎなかった親父。家事が苦手なだけじゃなく、経済観念もない母親。

「給食費、持って来てって言われた」
「ないよ」
 親父から渡された給料は、大抵1週間も過ぎるとなくなる。月初は鯛やヒラメのご馳走が並ぶが、1週間もすると漬物とみそ汁だけになるのだ。

「なくなるもんはしょうがない」
「いっつもやん!」
 袖子は、毎回、食ってかかった。衿子はとっに諦めたのか、何も言わない。
 母親を睨み罵倒する袖子の腕を、衿子が引っ張った。

「今度、お給料が出たときに、お姉ちゃんが給食費分、もらうことになってるから、今日はがまんしてね。お母さんには、ナイショよ」
 以来、袖子は何かあると、衿子に言うようになった。
 衿子に頼る部分が大きくなるのに比例して、母親を阻害し、否定する部分は大きくなった。

 袖子だって、衿子のナイショグセの恩恵と弊害をたっぷり享受していたってことだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?