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映画「首」 /秀吉の怒りと信長の孤独

「俺は悔しいんだよ」

映画「首」のなかでビートたけし演じる秀吉が言うセリフである。
弟の秀長にむけたセリフであるので、これは秀吉の紛れもない本音である。
主君である信長が、出来の悪い息子にあてた手紙を秀長に読ませた際のセリフだ。
百姓出身の秀吉は文字が読めない。そのため弟に手紙を読んでもらうしかない。
映画の中で、秀吉の過去が描かれることはないし、秀吉本人が自身の過去を語るシーンはない。これは他の登場人物についても同じである。
秀吉の所作や振る舞いのはしばしに彼の過去が透けてくる。

秀吉は、庶民が好きだ。いつも庶民に近い場所にいる。
兵士相手の女郎の中に女装した男がいて、兵士に「穴はあるんだから棒があってもなくてもいいだろうが」(セリフは正確ではないです)とすごんでいる場面がある。それを眺めて秀吉と秀長は楽しそうに笑う。下品であればあるほど彼らは愉快に笑う。

百姓に信長の扮装をさせ、殺している光秀とは根本的に違うのだ。光秀は、たぶん百姓が人間であるとちゃんと認識したことはない。

それが光秀や信長達と、秀吉との身分の差であり違いである。

キム兄演じる曽呂利は抜け忍の芸人で、誰が見てもうさんくさい男だが、秀吉はそんな曽呂利をなぜか気に入って彼の窮地を救ってやったりする。若い頃の自分と重ねたのだろうと推察される。
しかし気に入っている曽呂利に
「たぶんお前、死ぬけどな」
とサラッと言ってのけたりする。
庶民が好きで助けてあげたりするが、非常に酷薄な人物である。
別に彼は庶民の味方というわけではないのだ。曽呂利はすぐにそれを理解するが、百姓の茂助はそれが理解できない。

そんな秀吉だが、信長の家中では話しやすい気楽な人物であるかのように描かれている。特に、信長はそう思っている。光秀も秀吉は話しやすいようで、気さくに対応している。

信長は秀吉を余興の餌にし、家臣達は楽しそうに笑う。

光秀は意外なほどすんなりと秀吉の言うことを信じ、ぽろりと本音を話してしまう。

それはなぜか?

秀吉が百姓出身であるからである。
この男は絶対に自分を脅かさない、とどこかで安心してしまっているのである。数々の武功をあげ、侍大将に登り詰めた秀吉であるのに、秀吉が天下を狙い自分の寝首をかくなど予想もしていないのだ。
百姓が天下を狙うなど、あるはずがないと無意識に思い込んでいるのである。
当時の常識がすり込まれており、そんな自身の保守的な考えにも信長たちは気付いていない。

秀吉が悔しいのはそこなのだ。

信長が息子に送った手紙には、光秀や家康には警戒しろ、討ち取る覚悟を持て、と書いてあるのに、秀吉については領地でもあげておけばいいだろう、と軽んじて書いてあるのである。

信長の保守的な性質が垣間見えるシーンである。

天皇の前で行った軍事パレード(馬揃え)には当然のように秀吉は呼ばれない。かなりの実力者であるにも関わらず、である。曽呂利が「百姓が呼ばれるわけないだろう」と茂助に説明するシーンがある。茂助はそんなものか、と思っただろうし、秀吉と自身を重ねただろう。(茂助の悲劇はそこにある)

これだけ働いて成果をあげてきたのに、信長たち侍は俺を全く認めない。侍め、という気持ちが秀吉にはある。息子への手紙が決定打となり、秀吉は本気で信長を裏切る手はずを整えることになる。

信長のような一見破天荒でフラットに見える男でも、内実はこの通りである。秀吉の虚無感や怒りがうかがえる。

さて、信長であるが、彼は狂気と正気を行ったりきたりし、比叡山を焼き討ちするような常識はずれの新しい男である。しかし、実はその表の顔と反してたいへん保守的な面を持っている。

馬揃えに秀吉を呼ばなかったことや、息子への手紙の内容からもそれは明らかであるが、他にも彼の保守的な性質がわかるシーンがいくつかある。

まず、都になれている洗練された光秀に惹かれている点があげられる。尾張弁丸出しの信長から見ると、スノッブな美丈夫である光秀は大変魅力的である。

また、信長は自分の新しさを誇示するために黒人の弥助を側に置いて可愛がっている。自分はフラットな人間で、権威や伝統など壊してしまう男である、と見せつけるためである。しかし、蘭丸は抱けるのに弥助はどうしても抱けない。
「俺に抱かれたいか」と弥助に聞き、服を脱げ、と命じるのに、どうしてもその気がおこらずやめてしまうのだ。
信長はそんな自分が腹立たしくなり、弥助の腕を強く噛んでしまう。

弥助はあまり頭が良くない人のようで、信長は自分を可愛がっている、と本気で信じている。
権力者の愛人が、自分も偉いと勘違いして威張りだすように、いい気になって他の家臣を見下している。
光秀のことも秀吉のことも見下している。
実は信長にとっては弥助は自身の力を見せつけるただのオモチャであることをまるで理解していない。
ある時、光秀の前で信長に蹴飛ばされて、弥助はようやく自分が信長にとって何であるのか気付くのだ。
信長がまず愛しているのは息子たちであり、光秀である。弥助ではない。

また、光秀は信長は人ではない恐ろしい魔王だと信じて仕えている。信長が息子にあてた手紙を読んで
「人の子だったのか」
と怒るシーンがある。

常識や権威など破壊する魔王として見られている信長だが、実は保守的で普通の侍なのである。それを隠し通さねばならない権力者の信長は、孤独である。

信長が能楽鑑賞をして、その世界に引き込まれるシーンがある。

信長のいる世界、信長しかいない世界が垣間見えるシーンである。

北野武監督自身の孤独とオーバーラップするシーンで、重要なシーンだ。

ここでふと、信長は自分の本音をもらす。誰も共感しない、誰も気付かない信長の孤独が浮かびあがるシーンだ。

普通の男であった信長は、秀吉に憎まれ光秀に憎まれ、本能寺で死ぬ。
最後のシーンは、蘭丸や弥助に驚くほど優しい。

信長の孤独を呑み込んで、映画は無情に進んでいく。

この作品では、誰かが誰かにファンタジーを被せて勝手に理想視する、というパターンが何度も何度も出てくる。茂助は秀吉に、光秀は信長に、信長は光秀に。また彼らの部下たちは、主君に自分のファンタジーを被せる。
それだって、まぁ愛は愛だよな、という監督の呟きが聞こえてきそうだ。

そして全てをひっくり返し、台無しにする秀吉の行動と発言によって、唐突にこの映画は終わる。

孤独や暗さを抱えて、それすら蹴り飛ばして、この映画は唐突に終わる。

観るたびに味の変わる映画であると思う。







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