豆さくら

ただ、書くのが好きで。興味のあることについてたまに書いたり、自分の思考を整理したりする…

豆さくら

ただ、書くのが好きで。興味のあることについてたまに書いたり、自分の思考を整理したりするためにゆるく書いていこうかなと。 <大学4年生 専攻:分子生物と臨床検査 将来の方向性:検討中 大切にしていること:人間理解とメタ認知>

最近の記事

自由で残酷な多様性だけど…

誰かの言葉を信じれば、自分の人生が上手くいく訳ではない。 自分の頭の中で描いていた理想に辿りつかなくてもそんな自分に劣等生のレッテルを貼らなくていい。 全て人間が作り出した幻想だ。 でも、人間社会でしか生きられない私は、その幻想に苦しめられる。 その幻想によって苦しめられていることもあれば、時に守られていることもある。 多様性はある意味、その幻想に気づきやすくなっているのかもしれない。 多様性のある社会では多くの解釈がある。 絶対的なものはなく、再記述が可能な世界観だ。

    • 感情のベクトルは重力とともに。

      ものに働く重力が下向きであるように、考え方も下向きで考えるほうが楽なのかもしれない。 少なくとも、私はそうだ。 気づけば海に浮かんでいる時には見えた太陽の光は、自然に任せて下のほうに沈んでいくほど、見えなくなる。 下に沈めば沈むほど、辺りの静かで真っ暗な世界観に慣れ、孤独が心地よくなっていく。 だが、永遠に下に沈むことはできない。 いつの日か、底に辿り着く。 すると、もうこれ以上、下に沈むことができないことに虚しさを感じ、同じ場所に停滞することに抵抗感を抱き始める。

      • 「完璧じゃなくていい」という「心の完璧なあり方」を私は求めている

        友人との会話にて。 「ここのやり方、間違えちゃったんだよね…」  「でも、細かいところだし、気にしなくていいんじゃない? 完璧を求めると苦しくなるよ。」 「そうだよね…完璧を求めないようにしないとな…」 よく耳にする言葉「完璧主義をやめよう」。確かに、完璧主義をやめられたなら、心の負荷は取り除けるだろう。小さなミスでいちいち心が動揺していたら、人生、息切れてしまう。 本やSNSの言葉に触発され、「完璧主義をやめよう」という思考をインストールすると、その時には自分は「完璧主

        • 私は人間関係をサボっている

          友人との会話にて。 「○○さんって、かっこいいよね」 「そうだよねー。そういえば、○○さんってきれいだよね」 「そうだよね」 特に、深い会話ではない、何気ない会話だ。だが、かっこいい人、きれいな人を想像したとき、一番初めに出てきたのは、内面での判断ではなく、外見での判断であった。このとき私は、人間関係サボっているなと、ふと思った。人に対して関心が薄いから外見に意識が向きすぎてしまう。 相手の内面だけ見ることが大切だ。外見はどうでもいい。と極端な話に持っていこうとしているわけで

        自由で残酷な多様性だけど…

          自分の捉え方を変えてみた

          自認している私の全てをその環境下に提示するのが私らしいのではなく、様々な私が存在しているが、その環境下ではこういう自分が提示されやすいといったようにその環境下でついつい出てしまう、背伸びしないその私が私なのだ。 出し方調節といった自分でコントロールする部分もあるが、意識しなくてもつい出てしまう、そうやって外部に提示された私が私であるならば、人は様々な自分を持っている。だから、一つの環境下でその人の全てを理解したと思ってはならないし、ある環境下で出された自分を全てだと思っては

          自分の捉え方を変えてみた

          罪悪感✕恐怖心=行動力?

          (中学生の時の自分を内省してみると…) 勉強を頑張る私は、努力家。勤勉。しっかり者。 そんな、肩書きを手に入れた。 中学生になると、テストの順位が決められる。 いい点数、いい順位が得られると初めは嬉しかった。でも、嬉しかったのは初めだけだ。 いい点数を取って、順位をキープしなければ。 勉強ができて、努力家なことが証明できなければ、私の存在意義は何だろう。そんな考えが浮かぶようになった。楽しかったはずの勉強はいつの間にか、恐怖心が支配するようになった。 そして、中学生にもなれば

          罪悪感✕恐怖心=行動力?

          我が心を学ぶ

          小学生の頃、学ぶことが好きだった。 自ら参考書などを買うほどに。 学びたいという思い。 そのまま、貫けば良かったのに。 人からの反応に敏感な私は、 いつの間にか、 学ばなければならないことに追われ。 そんな状態に慣れていると、 いつからか、 学んだほうがいいことを考え始め。 学びたいという思いはどこへ。 そう生き続けていると、あることに気づく。 私は、視野が狭かったと。 人生経験の短い私が、 学んだほうがいいと考えていたものは、 絶対的ではないことに気づく。 自分の心の声に

          我が心を学ぶ

          私は新月でもあり、満月でもある

          人は月のようだ。 月の裏側は知らないが、表面だけを見て 月だと判断するように。 人は、他者から見られる表面的な部分だけで 判断される。 月そのものの形は変わらないのに その時によって見える面が違うように 人は置かれた環境下ごとに違う面を見せる。 ある場所では、満月のように。 ある場所では、新月のように。 ある場所では、三日月のように。 月の満ち欠けのように 私も満ち欠けを繰り返している。 でも、その満ち欠けは 他者から見られるものにすぎない。 月はどんな姿で私たちか

          私は新月でもあり、満月でもある

          今日も初めまして🌸。

          初めまして、豆さくらです。 日記など、書くことが好きなのですが、 最近、日記に収まらなくなってきたのでnote、 始めてみました。 書く方向性は、はっきりと決まっていませんが、 その時、感じたこと、考えたことなど 自分の考えを整理するためにも 書いてみようかなと。 ちなみに、今回の題名は、「今日も初めまして」 「昨日」の自分と「今日」の自分は違う。 毎日、どんなに小さなことでも、 何かしらの学びを得て、生きている。 その中で、自分に対する新たな気づきがある。 毎日、私は新

          今日も初めまして🌸。