⚫︎終わりのしるし 多くの者が 自分がキリストだと言って 多くの人を惑わす 戦争と戦争のうわさとを聞く あわててはいけない まだ終りではない 民は民に 国は国に 敵対して立ち上がる あちこちに ききんが起り 地震がある しかし これらは産みの苦しみの初めである /マタイの福音書 24:5-8 そのとき 人々は あなたがたを 苦しみにあわせ 殺す あなたがたは わたしの名のゆえに すべての民に 憎まれる 多くの人がつまずき また互に裏切り 憎み合う 多くの
⚫︎黙示録を読むべき理由 この書の預言の言葉を 守る者は幸いである この書の預言の言葉を 封じてはならない 時が近づいているからである 不義な者はさらに不義を 汚れた者はさらに汚れたことを 義なる者はさらに義を 聖なる者はさらに聖なることを 行うままにさせよ しかり わたしはすぐに来る アーメン 主イエスよ、来てください /黙示録 22:7, 10-11, 20
イエス・キリストは、神か人か、神の子か。 いわゆる正統派を自称するキリスト教は、イエスを神とする。そして、「神は唯一」との聖書記述との整合性を計るため、イエスは唯一の神(父なる神)と一体(または同一)とする。さらに、正統派は、聖霊も神であるとし、父なる神と子なる神と聖霊なる神の三つをそれぞれ神とし、それらがひとつの神とする説(三位一体説)を採る。 この説を理解できる人がいるのだろうか。筆者は、理解できない。 正統派キリスト教が採る三位一体説を、聖書から検証してみたい。
半年前から通い始めた教会の牧師とLINE上でキリスト論争になった。 イエスは神の子であり神ではない信仰を持っていることを、牧師には伝えていた。 「そういう考えも分かります」と言う言葉を期待したのだが、牧師は「重要な事柄なので、引くことはできません」と言い、互いの考えを主張し合う展開となった。 この教会に通い始める前から、キリスト教の教会とは、そういうものだと覚悟はしていたが、もしかしたら信仰を共有できるのではという淡い期待を持っていたが、残念な結果となった。 長年、無教
「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです」ヨハネ8:58(新改訳2017) これは、イエスの神宣言なのか。 「わたしはある」(ギリシア語で「エゴエイミー」、英語で「I AM」)は、神の名か 「わたしはある」は神の名ではない。神の固有の名は「YHWH(ヤハウェ)」である。 「わたしはある」は、「YHWH」の意味・内容を表わすものである。「わたしはある」は、シナイ山でモーセに語られたものである。モーセは、ファラオに神の名を聞かれたら何と答えればいいか神に尋ねたとき