見出し画像

2023年下半期の読書記録とほんの少しのメモ

7月

  • ヘンリー・ジェイムス『ワシントン・スクエア』(河島弘美訳、岩波文庫)@BOOKOFF

  • ナボコフ『ロリータ』(若島正訳、新潮文庫)@古書防破堤

  • 鵜飼哲『いくつもの砂漠、いくつもの夜』(みすず書房)@ジュンク堂書店池袋本店

『ワシントン・スクエア』は『テヘランでロリータを読む』からのsuggest。版元品切となっていた岩波文庫版をBOOKOFFでたまたまdig。なんだか退屈な恋愛小説だと思いながら読み進めていたら、最後の一文に打ちのめされた。

 裕福な医者の一人娘キャサリンは、ある日、社交的でハンサムな青年モリスと出会う。求婚され、恋心を抱くものの、父親はモリスとの結婚に反対する。どこまでも父親に従順なキャサリンは、最後まで父親の意向に背くことができない。一方のモリスも、キャサリンの父親の反対を押し切り、キャサリンが手にするはずの遺産を手放してまで、愛を貫くことはできない。結局、二人は別離する。
 父親の死後、叔母と二人で慎ましく暮らすキャサリン。そこへモリスが数年ぶりに現れる――それが、この小説のラストだ。キャサリンが強い言葉でモリスを拒絶した後、小説はこう閉じられる。

その頃、居間ではキャサリンが腰をおろし、さきほどの刺繍をとり上げて針を運び始めていた――まるでそれが一生の仕事であるかのように。

ヘンリー・ジェイムス『ワシントン・スクエア』(河島弘美訳、岩波文庫)345頁

『ロリータ』も『ワシントン・スクエア』と同じく、『テヘランでロリータを読む』から。新訳版なので、大江健三郎による解説が付いていた。

 ナフィーシーの印象的なタイトルとは裏腹に、『テヘランでロリータを読む』の中で『ロリータ』が特に際立っているわけではない。さまざまな抑圧があったテヘランで、小説を読んでいる間の一瞬だけ、ナフィーシーとその生徒たちは自由を手にすることができた。『ロリータ』はそんなふうに読まれた作品の一つであって、全てではない。フィッツジェラルドの『グレートギャッツビー』に絡めたエピソードの方がわたしには印象的だった。

 2023年に東京で『ロリータ』を読んでも、「東京でロリータを読む」とはならない。だって、読むという行為がそれだけで意味や価値を持ってしまうような、過酷な現実は東京にはないのだから。
 でも、かつて、東京にもそれに似た状況はあったという。そして、それは、ほんの100年ほど前のことだという。
 だから、想像することはできるかもしれない。
 摘発を恐れて床下に蔵書を隠すわたし自身を、あるいは、空襲警報が鳴り響く停電の夜に一人ページを捲るわたし自身を。
 想像してみること、だけはできるかもしれない。

 ちなみに、この『ロリータ』は仕事のついでに立ち寄った吉祥寺の「古書防波堤」でたまたま見つけた。他に、藤井貞和『ピューリファイ!』『ピューリファイ,ピューリファイ!』、鈴木志郎康『結局、極私的なラディカリズムなんだ』(いずれも、書肆山田)を購入した。
 その日、7月11日、ミラン・クンデラが亡くなる。

『いくつもの砂漠、いくつもの夜』は7月の新刊。みすず書房から数年おきに出版されてきた鵜飼哲の単著はこれで3作目。「災厄の時代の喪と批評」という副題のとおり、いくつかの追悼文が収録されている。あとがきに書かれていた「新しい旅の準備」という言葉には複数の意味が込められているとは思うけれど、何だか少し寂しさを覚えてしまった。

 7月24日、森村誠一が亡くなる。
 森村誠一と言えば、731部隊(『悪魔の飽食』)で、731部隊と言えば、小学校の図画工作室をわたしは思い出す。
 小学生の頃、いわゆる歴史好きだったわたしは、何かの拍子に731部隊のことを知った。そして、興味を持って調べたことがあった。おそらく、今では「総合的な学習」と言われる授業のハシリのような時間でのことだったと思う。「あなたが興味を持っていることについて調べてみよう!」的なお題に対して、731部隊について調べてくる小学生は、何というか、ちょっとやべーなって感じだったのではないだろうか。
 ある日、S先生から「731部隊に興味があるのはキミ?」と話しかけられた。S先生はなぜか担任を持っておらず、職員室ではなくいつも図画工作室にいる図工の先生だった。S先生は「ちょっと難しいかもしれないけど」と言って、731部隊について書かれた論文のコピーをわたしにくれた。その論文を書いたのはS先生だった。そして、森村誠一の『悪魔の飽食』なら文庫本で売っていると教えてくれた。
 S先生は冬でもサンダル履きで、授業はいつもテキトーだった。でも、粗いコピー用紙の文章は小学生にはとても難しい言葉で書かれていた。今にして思う。本当のS先生はどっちだったのだろう。

 7月の終わり頃に、西中賢治さんから『アラザル』に何か書いてみないか、というお誘いをいただく。

8月

  • 辺見庸『入江の幻影』(毎日新聞社)@三省堂書店小田原店

  • 久間十義『生命兆候あり』(朝日文庫)

  • 久間十義『聖ジェームス病院』(光文社文庫)

  • 西川美和『その日東京駅五時二十五分発』(新潮文庫)@BOOKS青いカバ

  • 『挑発関係=中平卓馬×森山大道』(月曜社)@Amazon

 8月5日にJR東海道線の列車が電柱に衝突するという事故があった。
 その日、わたしは平塚で湘南‐広島戦を観戦していた。試合は1−0で、湘南が久々に勝利したので、勝利のダンスまでしっかり見届けてからスタジアムを後にした。
 平塚駅に着くと、駅前は大変な人混みとなっていた。東海道線が止まってして、たくさんの人が行き場を失っていたのだ。「復旧のメドはたっていない」というアナウンスが聞こえた。駅近くのホテルは全部満室だという会話も聞こえてきた。怒ったり、座り込んだり、誰かの後ろでただ様子を見ていたり、人の行動は様々だった。
 わたしは帰宅を諦めて、バスと小田急線を乗り継いで実家に帰ることにした。

『入江の幻影』は、その翌日、地元の駅ビル内の書店で購入した。前作『コロナ時代のパンセ』に続いて、生活クラブの会員誌である『生活と自治』での連載をまとめた8月の新刊。この本のために書き下ろされた「『新たな戦前』に際して」というエッセイの中で、坪井秀人の『声の祝祭』に触れている。辺見庸がこの著書に言及するのはおそらく初めてではないと思うが、いよいよ読んでみたくなった。

 お盆休みには熱海で花火を見た。
 久間十義の医療小説は、この休暇中に立て続けに読んだ。エンタメ小説は楽しい。

『その日東京駅五時二十五分発』は『この30年の小説、ぜんぶ』からのsuggest。夏にはやはり戦争小説を読んでいる。

 8月の終わり頃、『君たちはどう生きるか』(宮崎駿監督作)を上野で観た。
 塔のイメージが、『街と、その不確かな壁』の図書館のイメージと重なった。一方は新たな主人を待っているが、もう一方の建物は新たな主人の到来を拒んでいるように思えた。
 ちなみに、宮崎駿と村上春樹の新作発表が重なった年はこれまでもあった。2013年には『風立ちぬ』と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が、2004年には『ハウルの動く城』と『アフターダーク』が重なっていたはずだ。どちらも「一緒に」触れた人はそれなりにいたはずだけど、「一緒に」論じられたことはあまりないような気がする。

『挑発関係』は神奈川県立美術館葉山で開催されていた写真展の図録。忙しくて写真展には行けなかった。

9月

  • 鶴見俊輔、上野千鶴子、小熊英二『戦争が遺したもの』(新曜社)

  • 高橋源一郎『君が代は千代に八千代に』(文春文庫)再読

  • 渡部直己『不敬文学論序説』(ちくま学芸文庫)再読

  • 井上章一『狂気と王権』(講談社学芸文庫)

『アラザル』に書くエッセイのテーマを、最初は「戦争小説」にしようかと考えていた。『戦争が遺したもの』は、その資料として読み始めた。結局、テーマは変更してしまったけれど最後まで読んだ。『アメノウズメ伝』を読んでみたくなった。

『君が代は千代に八千代に』と『不敬文学論序説』は原稿を書くための再読本。

『狂気と王権』も原稿を書くための資料として読み始めたが、完成した原稿では結局、なにも言及しなかった。
 前半は不敬が狂気とみなされてきた歴史的事実。後半では、王権の周囲で恣意的に決定される正常/異常の境界線は不敬事案だけでなく、天皇自身にも適用される可能性を孕んでいたのでは?というスリリングな論が展開される。超おもしろい。

10月

  • 高見順『敗戦日記』(中公文庫)@ジュンク堂書店池袋本店

  • 『現代思想』「総特集 関東大震災100年」(青土社)

  • 石井正己編『関東大震災 文豪たちの証言』(中公文庫)@往来堂書店

 1945年8月は冷夏だったという。
 それで、当時の日記で、誰かが夏の寒さについて書いていないかなと思って読んだのが、高見順の『敗戦日記』だった。しかし、なんとまあ、おもしろいこと。そのおもしろさの理由を、1945年4月7日の日記で、高見順が自らこのように説明している。

『日記』は事実を書いておく方がいい、と花袋は言っている。(「花袋文話』) 「こう思ったとか、ああ思ったということよりも、こういうことをした、ああいうことをしたという行為を書いておく方が『日記』というものの本来の性質にかなっている。自己の後年の追懐のためにする上から言ってもその方が便利だ」
 私もそのつもりでいたが、事実だけだと何か味気なく、「こう思ったとか、ああ思ったということ」を書き出した。そこに面白味が出てきたが、先日、日記がさっぱり書けなくなった。その原因は、思うにその「面白味」に対する嫌悪にあったのだから、おかしい。
 小説と同じだ。事実だけ書くのが、小説の究極の姿だろうと考えられるが、若いうちはなかなかそれができない。そのきびしさにたえられない。そこで「こう思ったとか、ああ思ったということ」が入ってくる。そこに小説を書く面白味、小説の面白味を求める。ところが、その「面白味」が小説の弱点になってくるのだ。一番腐りやすい部分になってくる。小説のいわゆる新しさ、新味はその「面白味」のところで工夫され発揮されるのだが、そういう新しさが一番さきに古くなる。十年も立たないうちに腐臭を発してくる。
 鷗外などの日記は、事実だけなので腐らない。
 私の日記は、――腐ってもいい。いや、腐っていい。

高見順『敗戦日記』(中公文庫)153−154頁

「私の日記は、ーー腐ってもいい。いや、腐っていい。」
 これを2023年のベスト・オブ・パワーワードとして記憶しておくことにする。
 ただ残念ながら、高見順の日記には8月の暑さについては何も書かれていなかった。きっと、「天気」どころではなかったのだろう。

 10月2日に渋谷で小沢健二の素敵な講義と素敵なライブを聴く。翌日には仕事でロンドンへ。機内では講義で配られた教科書を眺めていた。P.85が好き。

 10月半ばに『アラザル vol.15』用の原稿を提出した。
 原稿を書き終えた直後に自室の本棚が倒壊した。とても不吉だ。
 帰宅すると、昨年せこせこ買い揃えた『大江健三郎全小説』(美本、全15巻揃)が崩れた本棚の一番下でぐちゃぐちゃになっていた。言葉を失う。
 床が抜ける前に何とかするように!と家人から厳命されてしまったので、蔵書を少し整理しつつ、本棚を作り直すことを決める。

『現代思想』の「総特集 関東大震災100年」はどの論考も興味深く読んだ。逆井聡人の「金子光晴と大虐殺の記憶」が特に良かった。
 脳内が関東大震災モードになっていたので、8月の新刊文庫で出ていた『関東大震災 文豪たちの証言』を続けて読んだ。同じく8月刊の江馬修『羊の怒る時 関東大震災の三日間』(ちくま文庫)も一緒に購入したが、そちらは積まれたまま。「文豪たちの証言」の中では内田魯庵の「最後の大杉」が特に残った。

11月

  • 矢作俊彦『ららら科學の子』(文春文庫)再読

  • 矢作俊彦『悲劇週間』(文春文庫)再読

  • 関容子『日本の鶯 堀口大學聞書き』(岩波現代文庫)@BOOKOFF

 蔵書の整理というのは、つまり、「売る本」と「売らない本」の選別のことだ。そして、その選別のためには、その本をもう一度読み直さなければならないこともある。それを「さよならの儀式」と呼んでいる。誰が? わたしが。
 矢作俊彦の二冊の文春文庫はその儀式に捧げられたもの。なので、どちらも再読。『ららら科學の子』の作中に出てくる『点子ちゃんとアントン』がとても印象的だったので、岩波少年文庫版を娘にプレゼントした。
『悲劇週間』は発売当時、途中で読むのを止めてしまったままになっていた。与謝野晶子が管野スガから届いた手紙を庭で燃やすシーンが物語の序盤にあるのだけど、物語の終盤、「悲劇週間」が終わった後でもう一度出てくる。大事なことは何度でも言いたくなるものだ。

 『悲劇週間』の主人公である堀口大學が気になって、BOOKOFFでたまたま見つけて読んだのが『日本の鶯』。ところで、興味を持っているジャンルの本をBOOKOFFで見つけてしまう現象にそろそろ名前を付けたい。堀口大學が実際に体験した「悲劇週間」についてもほんの少しだけ語っていた。

大統領のマデロは、既に陸軍を中心とした革命軍に捉えられ、その私邸は焼かれてしまったのだが、日本公使館も家族を匿っていると焼き打ちをかけられるぞという流言が飛んで、女子供はひとまず避難させるということになり、僕らは大統領の公邸へ移りました。夜、明りを消した自動車に、身を伏せるようにして乗ってね。何しろバンバン銃弾が飛び交う音の聞こえるさなかですから。

関容子『日本の鶯』(岩波現代文庫)342頁

 その堀口大學の親友だったのが佐藤春夫で、辺見庸に言わせれば、戦時中に「屑詩」をたくさん書いた詩人の一人だ。佐藤春夫も続けて読んでみたくなったが、「さよならの儀式」で本がまた増えてる!と家人がボヤくので、いったん止めておくことにした。

 11月11日、『アラザル』の文学フリマ東京37の打ち上げに参加させていただく。

12月

  • フォークナー『野生の棕櫚』(加島祥造訳、中公文庫)@往来堂書店

  • 辺見庸『月』(角川文庫)

『野生の棕櫚』は11月の新刊文庫。「オールド・マン」は『ポータブル・フォークナー』(河出書房新社)で池澤夏樹訳を読むことができるが、「野生の棕櫚」とセットで読めるのは中公文庫だけ。ということで早速購入して読んだ。「野生の棕櫚」も「オールド・マン」も、どちらも何というか救いがない感じ。

12月の初めに、『月』(石井裕也監督作品)を渋谷で観る。それから、文庫版の『月』を読んだ。

12月18日、徐京植が亡くなる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?