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映画 「アレクサンドリア」(ネタバレ有)

「アレクサンドリア」(原題AGORA)は2009年に公開されたスペインの作品。この映画の主人公はヒュパティアという人物で、彼女は4世紀から5世紀にエジプトのアレクサンドリアに実在していた女性で、哲学者であり、数学者・天文学者であった。彼女は415年になくなったという記録が残っている。歴史的事件の中で悲劇的な殺され方をし、その死が多くの人に影響を与えたため、その記録が記されたのだった。

映画の時代的背景

彼女を殺したのはキリスト教徒であった。一般的に初期のキリスト教徒は被害者というイメージが持たれている。しかしローマ帝国内でキリスト教徒が迫害を受けたのは、313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認するミラノ勅令を出すまで。これ以降、信仰を認められたキリスト教徒は、帝国内各地に教会を設立し、活動を活発化させていった。そして3世紀のローマは非常に混乱した時代であった。その兆しは疫病によりローマ帝国内の人口の1/3が失われたり、それで弱体化した帝国にゲルマン民族が侵入してきたりして、キリスト教徒はそうした非常に不安定な時代の中で増加していった。ローマの国教となったキリスト教徒達は、キリスト教の異端はもちろん、ユダヤ教徒や古代ローマの神々を信仰する人々を異教徒として弾圧していった。

ストーリー

異教とキリスト教の境界がまだ曖昧だった時代に学問の道を歩み始めたヒュパティアは、数学の才能に恵まれ30歳になる頃にはアレクサンドリアで最も傑出した知識人として哲学塾の学頭となった。この時代は天動説が信じられていたが、ヒュパティアは地動説の立場をとる。また、惑星の楕円軌道を発見する。しかし、これは歴史上ではこれより1000年遅く、16世紀頃に発見されたことである。彼女はこの学問成果を公表することなく死んでいくわけだが、聖書の中に書いてあることのみが真実であり正しいことなのだと盲信するキリスト教徒の姿が作中で描かれ、観察に重きを置かない人々が席巻する社会では学問の価値が認められないことがよくわかった。

感想

印象にのこったシーンは、ヒュパティアが、男女、年齢、信仰を問わず、共に学ぶ者達を「兄弟」として講義を行うシーンだ。今の大学での学びと一緒であり、学問は誰をも排除しない、誰に対しても開かれているものであることの素晴らしさが心に刻まれた。また、一神教であるキリスト教やユダヤ教の人々が互いを認められず、排除しあっていた。これは宗教が問題なのだろうか。いや、元々私たちの心の中には、自分が正しく相手を排除したい、という感情があるのではないのだろうか。それが宗教という武器を持った時に爆発して、違う考え、宗教の人を排除してしまう。聖書では全ての人間のうちには「罪」がある、と言っていて、キリスト教徒もユダヤ教徒もその他の人々もみんな罪人なのだ、という理解のもと、神がその罪を許すためにキリストをこの世に送り彼は十字架にかかり、これを信じ全ての人の罪は許される、と聖書に書いてある。しかしまだ人の中に罪の性質は残っていて、まだ人を排除して自分が正しくありたいと思っている自分もいる。
ここで大事なのは、イエスは誰も排除していないということだ。彼は社会的に弱い立場にいて罪人と呼ばれた人と共にいた。彼はユダヤ教徒として行動していたし、ユダヤ教の人々を排除していない。社会の中で多数派側に立ち少数派を排除するのではなく、社会の中で認められない弱い立場に立って物事を考えていくことをイエスは教えられたのではないか。その上でみんな罪人なのだからお互いを排除できる権利もないし、ただそのへりくだった心に聖書は何よりも価値を置いている。また、子供がよく観察するように、社会的に弱い立場で無知を知った謙遜な心を持った人は、自分を守るために物事をよく観察する必要がある。自分が正しい、と近視眼的に考える人には知識は必要ない。自分が何も知らない、自分の考えは発表する価値もないと思っている人は日頃から偏見のない目でよく観察しようとするだろう。子供や初心者のようなへりくだった心を持つ人こそが道を開いていく人だ。


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