書くことと写真を撮ること

どこで読んだか忘れたが、写真家によって書かれた良質の写真論があまりない、という。

正直なところ、この言説を裏打ちするような調査や統計を知らない。しかし感覚的には分かる。自分も読んだことがない。報道の立場からリテラシーについて書かれたようなものは見かけるものの、写真論とは別の議論だろう。

歴史の浅い写真の分野では、もはや古典と言ってもいいものに、ロラン・バルトの「明るい部屋」とスーザン・ソンタグの「写真論」がある。

双方とも写真の本質に迫る議論を展開しているが、写真家ではない。2人とも言葉を本職としている。「現代写真論」のシャーロット・コットンは写真が本職であるが、キュレーター、批評家だろう。

写真家は基本的に表現に興味がある人だ。だから文章がうまい人も少なくない。筆者は一時期、森山大道や大和田良、吉田ルイ子ら写真家、フォトグラファー、フォトジャーナリストと呼ばれる人たちの本を読み漁っていた時期もあったが、写真論とは違うだろう。すでに世に出た著名人の本を読んでみても、才能の違いに最後には虚しくなることもあった。

事情があってすでに辞めてしまったものの、筆者は創造的批判的実践ともいうべき写真のコースの博士課程を半分くらいまでやっていたことがある。自分で見つけたテーマの写真プロジェクトをまとめ、その批評を書き上げるというものだ。そこで指導教官のひとりに言われたのは、「本を読んで写真を撮り、写真を撮っては本を読む。その繰り返ししかない。文章を書かせるのは、(生徒が)何を考えているか、自分たち(指導教官)が知るため」と言っていた。

インプットはいろんなメディアからできる。動画、写真、展覧会、会話などなどだが、まとまった形で大量にできるのはやはり文字からだろう。直接役に立つ情報だけでなく、ものの考え方に至るまで、知的創作活動の基本は読むことからだと思う。実際、優れた写真家は本をよく読み、入念なリサーチをしている人が多い。アウトプットは一方で、写真を撮影、編集するわけだが、写真だけというわけにはいかない。ジャーナリスティックな作品は写真説明はもちろん作品の概要や参考資料を明記しなければいけないし、芸術的な作品でもアーティストのステイトメントなど文字でしっかりと表現しなければいけないことも少なくないだろう。

外に出す情報だけではない。さらに言えば、自分の考えをまとめるためにも書くことは重要な役割を果たす。頭の中にあるいろんな記憶やアイデアの断片からいきなり作品を作り上げる人は少ないだろう。紙のノートに書いたり、付箋のようなものにアイデアの断片を書いて並べてみたり、いろんなやり方があるかも知れない。しかし書くこと、そこから物事が動き始めるように思う。

書くことは考えることなのだ。最終的に作り上げるものがイメージであってもそれは変わらないはずだ。

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