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愛とは何か

僕は最近、愛について考え続けている。
せっかくだから言語化を試みようと思う。


愛っていったいなんなんだろう

1.愛とは何か


ひとまず愛について定義すべきだろう。
僕にとって愛とは何か。
愛について語る上で人間の本質について考えることは避けて通れないだろう。個体と個体をつなぐ関係性に愛という形があるに違いないのだから。

人間の本質とは何か。肉体?頭脳?魂?
いいや、人間の本質、それは情報である。
ピクサーのリメンバー・ミーという映画を視聴された方も多いかと思うが、人間というものは記憶に残り続ける限り存在し続ける。
イエス・キリストだって、チンギスハーンだって僕らの世界でまだ存在している。何故なら人々が思い出すからだ。
誰かが思い出してその存在を正確にではないにしろ呼び起こし続けることで、あなたという存在は半永久的に消えることはない。
その代わり、誰も思い出さないならば存在は文字通り終わる。

愛とは何か。
それは自分の情報を残したいという純粋な願いのことである。
自分の情報のコピーを誰かに保持してほしい。
誰かの情報のコピーを保持していたい。
この相互作用がつまり、愛である。
この本能は人間にプログラムされた生物的なアルゴリズムの根底にあるものなので人間として生きる限り僕たちはこれに完全に支配されて生きなければならない。
人間は愛の生き物なのである。


2.孤独のメカニズム

僕たちはどうして寂しいと思い、愛を求めてしまうのだろうか。
少し脱線してしまうが、孤独感のメカニズムについても言及しておこう。
4か月ほど前に動物学から見た利他行動により、人間が自然界から逸脱した生物であることは少し書かせていただいたのだが、どのようにしてという過程については書かなかったので、愛を語るついでに語らせていただけたらと思う。

僕たちは他の動物と何が違うのだろうか。
それは主観に基づく個、という概念があることである。

基本的に記憶というものは、狩りをし危険を避け生きていくために過去の記憶を呼び覚まして照合し、目の前にあるのが危険であるのか獲物であるのか、どう対処するべきかの判断材料とするために発達した。
脳科学によると記憶には2種類あって、書籍や伝達などによって得た2次的記憶、もう一つはエピソード記憶と呼ばれる、自らの実体験に基づいた主観的記憶である。
二つを比べた場合、エピソード記憶の方がずっと強く鮮明で、より便利な記憶として役に立つ。

そんなわけで人間は、主観を基にしたエピソード記憶に、より特化した生物へと進化を遂げることとなった。
その過程で、人間の「個人」という幻想はどんどん膨らみ、まるで自由意志を持った特別な存在であるかのような勘違いは生まれたようだが、それは別の話であるので割愛する。

とりあえず、主観が確立したので、人間は客観も得てしまった。
僕たちは過去に何があったのか鮮明に思い出し、それに基づいて未来を予測してしまう。自分たちが死ぬことすらも知ってしまっている。
その能力が皮肉にも自然界から僕らを隔離させ、逸脱させてしまった。
自然からの逸脱感は僕らの存在を何故か不安に陥れ、連綿と続く空虚な孤独感、連帯感の欠如といった動物的なマイナス感情に繋がっていくと考えられる。


3.どうすれば孤独感は埋まるのか?


ではどうすればその根本的な胸の風穴は埋まるのか?
愛である。だから僕たちは愛を求めている。

何故、僕たちは利他行動を始めたのだろうと僕はふと考えたのである。
他の動物たちはしないのに、僕たちは時に利他行動をとりたがる。
そこには愛が関係していると思う。
利他行動をした個体というのは、他の個体の記憶に残りやすいのだ。
いつでも英雄的利他行動は語り継がれ、銅像になり、人々に思い起こしてもらえる。

僕たちはいつも愛を求めている。
自然界から切り離されてしまった寂しさを埋めたくて、不安定な自分の情報を誰かに渡したくていつも、もがいている。
自分の情報がどれだけ脆く世界から消え去ってしまうのか、客観する目を得てしまったから。
誰かに覚えていてほしい、忘れないでいてほしい。消えたくない。誰かを覚えていたい。消えてほしくない。
その潜在意識下の生物的本能の強い思いが自己より他者を優先させるのである。それが愛というものなのであろう。

愛の取り扱いで大切な3つのポイント


だから多分、履き違えてはいけないポイントは3つある。

1.自分を愛すこと


一つ目は、あなたはあなたの情報を残したいという本能で誰かを愛し、自分の情報を開示したいと望んでいて、相手の情報も持っていてあげたいと望んでいるのである。その基本を忘れてはいけない。
だから、自分の情報を愛すことはまず絶対条件だ。
大嫌いな自分の情報を残したいと誰かに嚙みつくのはもうよそう。
それは大きな矛盾を抱えている。
あなたはあなたが好きで、自分を愛しているから相手に自分の情報を保持して、自分を思い出していてほしいのだ。
自分が大嫌いだから変えてくれと相手に懇願するのはそれは愛ではない。依存だ。嫌いな部分があるならまずは相手じゃなくて自分を見つめること。
そこを履き違えると、愛の形は必ず歪んでしまう。基本には忠実に。

2.愛とは受け取るものではなく与えるもの


もう一つは、愛とはもらうものではなく与えるものだときちんと認識することだ。
愛とは、自己開示して自分の情報を持っていてくださいとお願いする行為だ。自分の生命情報をあなたが持っていてくれる、そして思い起こしてくれる。そのことで、自分はこの世に存在し続けている。それに対しての感謝をまず持つこと。
それにスパイスとして利他行動が非常に強く情報として相手に残るのだってことを思い出してもいい。相手を自分より優先させれば、きっとあなたの心はずっと満たされる。それは相手のためじゃなくて、あなたのためだからね。
もし相手に何かしてもらったら、素直に受け取ってありがとうって言おう。
多分、相手もそれで満たされているのだから。

欲しい、欲しい、というのは決して愛ではない。
恋ではあるかもしれないけど。
愛してほしいなら、まずはあなたを与えること。
相手を信じて開示して、全て預けてみること。もしかしたら相手もそれに応えて全てを預け返してくれるかもしれない。
愛してもらえるというのはただの鏡の反射に過ぎない。
月になりたいと望む暇があったら、自分が太陽になること。

3.相手を無条件に慈しむこと


最期に一番大事なのは、自分の情報を持って生きていてくれる相手をただひたすらに慈しむこと。
すべて受け入れてくれた相手の尊さを決して忘れず、それがどれだけの意味を持つのかきちんと言語化して感謝すること。
存在そのものがありがたくて、心から愛してるときちんと伝えること。
そしてその存在を守るためなら自分の全てをかけること。
だってそれはあなたの情報保持にもつながるんですよ。勝ちしかありませんよね。

支配したり、変えようとしたり、何かを欲しがって奪ったり、それは絶対に愛ではない。
あなたの魂の願いを受け入れて、あなたの情報のコピーを持っていてもいいよって言ってくれた人を虐げてはいけません。
見返り?
もうあなたは十分にもらっているのだから、ひたすらに愛し続けてください。それが愛だと僕は信じています。

最期まで拙文をお読みいただきましてありがとうございました。
この記事を書いている間ずっとDAZBEEの「愛じゃない」をひたすらリピートして聴いていたので感謝を込めてリンクしておきます。


参考図書

「愛するということ」フロム
「僕という心理実験~うまくいかないのは、あなたのせいじゃない」妹尾武治




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