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澄んで生きる。

乱雑になりがちなスマホのギャラリーを整頓していると、懐かしいスクリーンショットを発見した。
とあるnote記事の簡易メモである。日付は24/10/2023。
何故記録したのだろうとスクショを読み直して、なるほど今もう一度読み直すべきだからか、と過去の自分に感謝した。

執筆された方に記事を使っていいかと確認のメールをしたところ、僕の文章は著作権フリーなんでいいですよ〜といつもの調子で快諾していただいたので、記事と共にご本人の紹介もさせていただくこととする。本人は著作権が発生する?知ったこっちゃない。


今ではフォロワー数も600人近いビッグなnoteライターさんになられてしまったが、私が竹内さんと相互フォローした頃にはまだフォロワーは一桁か、十数人だった気がする。
今でこそ多方面に才能を発揮されて迷走を続ける、誠にはっちゃけたおじs、いや、お兄さんになられてしまわれたが、昔は硬派な記事を細々と書かれている静かな世界観の作家さんだった。
記事もフォローした日に全部読めたくらいだったので、両手で数えられるくらいの記事数だったのだろうと記憶している。
思えば長いこと友達でいてくださっている気がする。ありがたいことである。合掌。


さて本題の記事のことに入らせて頂こうと思います。
まずは竹内さんの記事の引用をそのまま流用コピペ引用させて頂きます。

「空すむ」「水すむ」は、秋の季語である。
秋になると、空高く大気が澄みわたり、水の流れにも清涼感を覚える。
「すむ」というやまと言葉には、①澄む(清む)、②済む、③住む、という三つの意味がある。


まず「澄む(清む)」とは、「浮遊物が全体として沈んで静止し、気体や液体が透明になる意」(『岩波古語辞典』)である。この使い方は、空や水、月や音など風物の様子だけではなく、澄んだ瞳とか、澄んだ心などと、人の心や表情のありようなどにも使われている。(中略)

水や泡沫が、かつ消えかつ結んで流れ行くように、また、風が吹くように、鳥や虫が鳴くように、この世にあるものは、いかにつらく悲しいことがあろうとも、みずからの思いのたけを、自然・宇宙のおのずからの働きに響かせ表出するならば、いずれついには、濁りや曇りが取り除かれて、静かに落ち着き収束しうるものなのだ、と。つまり「澄み」「済んで」、この宇宙の一隅に十全に「住み」うるものなのだ、という世阿弥の思想をそこに見出すことができる。「すむ」は、そうした含蓄を持った言葉として使われている。

竹内整一「すむ」ということ(「月刊 武道」2023年9月号 VOL.681)

10月に読んだときにはただなんと美しい文章だろうと思って記録したのだと思うのですが、今読むと全く違った顔つきだなと思ったのです。

私自身、この一週間で人生で指折りの苦しみを味わいました。
私の人生での痛いエピソードについては精神的にも肉体的にも割と自慢できるくらいにはネタがあります。
正直、語りだしたら小一時間くらい笑い取れそう。やらないけど。
そんな私にとってもこの一週間は私にとってかなりキツイ試練となりました。

三日三晩、喪失感と絶望からくる胸の痛みと呼吸困難で全く睡眠が取れませんでした。
ずっと泣き続けたので目も開かないほど腫れあがり、精神が本当に廃人になりかけ頭が本当にイってしまいそうだったので、とにかく一回身体を強制的に休めなければならないと思いまして、お医者に行って人生初の睡眠薬を処方してもらうという体験をしました。
うわ、書きだすとヤバい人みたいじゃん。

そんなヤバいことになってでもですね。
人間というのは回復能力がありまして。
死ぬかと思ったし、もう駄目だと思ったんですけど。
なんかある瞬間にぽっかり晴れたんですよ。
澄んだんですね。毒が時間経過でろ過されて。

それで終わってみて気づいたんですね。
あれ、苦しむ前よりずっと身体が軽くなっていると。
なんだ、あれは毒を盛られたんじゃなくてただの苦い薬かあ。
と終わった今ならわかるのです。

人間というのは普段、本当に様々なものを起こさないように、コップの水の中の泥を決して波立てないように。
そろりそろりと生きてるものですれど。
それらは一回水を全部濁らせて表出しないことには澄まないんですね。
そうやって人間は濁りや曇りを取り除きながら澄んでいって
宇宙の片隅に住める存在にやっと還っていける。
スクショした記事の意味がやっと分かってなあるほどね、と膝を叩いたわけなのです。

今はもらった薬に対しての感謝がものすごいです。
誰に感謝していいのかわかりませんが
この数か月というものは全て、コップの中のものを全てひっくるめて、ひたすらシェイクする時間だった。
そして水を澄ませるために一週間の苦しみに満ちた静かな時間をもらえた。
その采配にひたすら敬服して感謝しているのです。
今は確実に泥の中に毒が含まれていませんから。

苦しい人宛に手紙を書いたものを
自分のプロフィールのトップにピンしていますけれども。
本当に苦しくてもいつか朝は来ます。
睡眠薬でしか眠れない夜を過ごしても、
いつか泥は落ち着いて水は澄んできます。
苦しんでいる途中でそんなこと言われても救いにはならないだろうと思いますが、終わった後の夜明けには必ず得たものがあるのです。
どうか、歯を食いしばってでも生き抜いてください。
手段は問わず、なんとか命さえつないでいれば光はいつか訪れます。

春は来ますよ。

竹内さんの記事がなければこの限りなく美しい文章に出会うことはなかったでしょうから、心からの敬服と感謝をここに述べて記事の〆としたいと思います。
せっかくご本人様の紹介もしたので、最後は竹内風に記事を終わりたいなと思います。
今日の一曲はレミオロメンの3月9日。

上手くはいかぬこともあるけれど
天を仰げば それさえ小さくて

青い空は凛と澄んで
羊雲は静かに揺れる
花咲くを待つ喜びを
分かち合えるのであればそれは幸せ

この先も隣でそっと微笑んで

瞳を閉じればあなたが
まぶたの裏にいることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私もそうでありたい

レミオロメン/3月9日

光がだんだんと朝を暖める。
なぜかとてつもない安心感とともにそう感じるのです。
共に花咲く春を待っているのだなあと。
たとえ今が雪と氷に閉ざされていても
いつか訪れる春のことを共に想えるのならそれはたしかに幸せだと思います。
この曲が今日は凄く響きます。
もう3月ですねえ。


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