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君と異界の空に落つ2 第39話

 耀(よう)は養い親である善持(ぜんじ)から、十分な飯を貰っているので、畠中の家で出された夕飯が特別多いとは感じなかった。けれど、綺麗に並べられた皿の上に、これまた綺麗に盛り付けられた料理である。筍(たけのこ)の煮物には山椒の芽が飾ってあるし、若い蕗の煮物は美しい緑色、焼き魚の下に彩りを添えるよう、ベニシダの新芽が置かれて食欲をそそってくれる。汁からは香ばしい味噌の匂いが漂って、品よく盛られた玄米も美味そうだった。
 まるで客をもてなすような綺麗な料理だが、家にあるもので済まないな、と御当主が口にするので、普段からこうなのだろうと感動した耀である。まさか子供相手に洒落たものを出すとも思えないから、余計に感動した部分もあるだろうか。腹に入れば同じであるので、善持の飯には何の不満も無いけれど、美しく整った食事を見ると素晴らしいとも思うのだ。このように豪華なものを……と、お礼を口にして、いつも通り静かに食べた耀である。
 それは身に付いた黙食で、極力音を立てないものだ。一人目のお師匠様、雪久に拾われた先の浄提寺において、身に付けさせて貰った修行の一つである。音を立てないように集中力を養いながら、少ない食料で空腹感を満たす為、あちらでは二刻、つまり一時間を掛けて食事にかかる。其処で世話になっていた時よりも大分”緩く”なってきたが、それでも耀の食事は静かな方だ。姿勢も伸びている為、品がある。御当主は食事をするのを忘れたように、暫く彼が食べる姿を見つめて過ごしたようだ。その人ばかりではなく給事で待機する女房も、扉の隙間から見惚れるように耀を見た。

「食事中に済まないが、それは何処で身に付けられたのか」
「?」
「随分と綺麗な姿勢で食べるから。さえ殿の知り合いの坊様が、食事に煩い人なのか?」

 問われて、あぁ、と思った耀だ。一旦、箸を置き、御当主の方を見る。

「これは以前お世話になっていた寺で、躾けられたものになります。一日中修行ですので、食事もまた……というように」

 それでも随分怠けてしまって、食べ切る早さなど、見る影もなくなってしまったので、怒られてしまいそうですが。
 苦笑する耀を見ると、成る程、と頷いた男だった。

「良い所に居たのだな。この国に仏道が入ってきた時は、我らが先祖も少しは心配したらしいものだが……」

 良いものとして根付いているなら、共生も出来るだろう。そう呟いて自分の食事を再開した御当主は、耀の食事作法を真似て、静かに食べる事に専念したようだ。
 食事が終わった頃には茶が運ばれて、膳は下げられ、部屋には二人きりになった。御当主は隅に寄せていた文机を持ってきて、文箱を開き、少し待てと耀に言う。ならばこの間に小用に立っても良いでしょうか? と、互いに万全を整えて向き合った。
 再び現れた人の手の中には、占いの書物と紙がある。どちらも大切にされているらしく、染みも皺もないものだ。御当主は墨と筆を貸してくれ、耀に向けて広げた紙へ、書物の中身とそっくり同じように、書き写すように指示をした。
 はい、とは頷いたものの、書物の中身は達筆だ。写すにしても読めない字が多かった。丁寧に書こうと思っているのかと感じた当主に対すると、普段の耀を知っている瑞波が先に気付いてくれたよう。そっと隣に腰を下ろすと耀の耳元へ、分かるだけの字の読み方を教えてくれた。
 途端にこそばゆい気持ちを抱いた耀だけど、顔に出すには場面が違う。ただ、纏う空気が柔らかくなり、穏やかに変化した気配を感じると、瑞波の方も気付いたらしくてそちらの気配も和らいだ。
 目の前の男には視えないが、肩を寄せ合い視線を落とす仲睦まじい二人である。瑞波が『これは分かりません』と正直に伝えると、耀は顔を上げ「これは何と読みますか?」と。余りに透き通った視線で聞いてくるので、畠中の当主の方も胸を射抜かれた気分になった。
 自分には全くその気(け)が無いので、それは純粋に”慕われて嬉しい気持ち”と解釈するが、耀には何か特別な、不思議な気配があるようで、つい気を許すというか、魅入ってしまうと言えばいいのか。高鳴りそうな胸を抑えて真面目に向き合うその人だ。
 やがて夜も更けていき、程よく写本を終えていた。耀の筆は中々の速さで、想像より多く記せていたのだ。偶に分からない文字はあるものの、よく知っているなと感心する域である。
 聞けば一人目の師匠とやらが、優しくも厳しい男だったそうで、仏道は勿論、神道も、それなりに仕込まれているそうである。良ければ明日の朝、祝詞を唱えさせて欲しいと言われ、それなら我が家の祝詞を読んでやるから、書いて覚えていけば良い、と男は返す。耀は恐縮したものの、祝詞には興味があるらしい。本当に良いのでしょうか? と心配顔をする童子に対し、耀殿を気に入ったらしい大神様だから、きっとお喜びになるだろう、と返すのだ。
 今日の分の写本を終えたら風呂殿に呼ばれ、用意して貰ったお湯で体を清めた。体を清めている間、客間には布団が敷かれてあって、寝間着に使ってよいのだろう薄い着物が置いてある。着てきたもので布団に入るには申し訳ないと思う位には、汚れている着物であるから有り難く着替えた耀だった。
 明日は早いぞ、と御当主に脅されはしたものの、日々、鶏の鳴き声に起こされている耀である。分かりましたと返す心も、慣れているので平気です、だ。うむ、と頷く男を見送り、布団に収まった。
 壁の裏には人の気配がするので、寝るまでは見張られてしまうようである。瑞波に”有り難う”と”おやすみ”を言いたいだけなのだけど、しない方が良さそうだなと思うくらいには圧がある。
 横を向いた耀は小さく布団を叩いた。おいで、と言うつもりで叩いたものだが、瑞波は察してくれたらしい。枕元に座って両手を付いて、どうしました? と綺麗な顔で覗き込んでくる、から。

『もう少し』
『?』
『ん』

 十分に近付いた所で以て、不意に顔を動かしてキスをした。
 いつも通り真似事の、触れる事のないキスである。

『さっきは有り難う、瑞波。おやすみ』

 と小声で言えば、瑞波は”ぱっ”と顔を赤らめ、袖で隠して狼狽えた。
 耀の動きは”すわり”を探して寝転がった風なので、人には聞き取れない異言のおかげで”独り言”と思われる。堂々と話をしたら”頭のおかしい人”だけど、小さな独り言なら誰にでもあるだろう事だから。
 耀は布団の柔らかさを久しぶりに堪能し、今日一日で起きた事柄を振り返るように目を閉じた。

 現れた神の事。
 お嬢様と九坂様の”縁”。

 そもそも神懸かりで縁が結ばれていたのなら、耀が一計を案じなくても縁続きになれた筈である。なれた筈なのに上手くいかずに神の方が諦めようとしていたのなら、神の思惑も人の気持ちも上手く纏まったように見え、取り持つ事が出来た事、良かったなと素直に思う。
 そういえばあちらの世界でも、十月の神議りでは、国に住む男女の縁を神々が結んでいくという、縁結びの仕事が含まれていたような気がする。平時においても、その社(やしろ)は縁結びの神社として有名で、国中の神々が談義の為に出張をする、十月の神無月に対し、神々が集まる社が置かれた県(くに)では、十月を神”有”月と呼ぶのである。
 今年の神議りでは瑞波が舞を披露するようなので、ひと月も居ないと思うとやや寂しいものがあるけれど、何とも興味深い話だと考えた頭の中は、神々の”社会”の事と人との関係を、ここでも素直に不思議に思う。
 嫌だけれど舞わない訳にはいかないと呟く瑞波に対し、あの神、大神は、さぞ立派な神なのだろう、とも。
 人から神に成り上がろうとしている耀だから、自分はきっと”呼んで貰えない”と思うに至る。呼んで貰えない場所で瑞波が舞を披露すると思うと、妬けるような悔しいような……やっぱ妬けるな、と苦笑する。
 譲れ、と言われる事もあるのかも知れない。何せ、瑞波は美しい神だから。心まであのように純真なのだから、譲れどころではなくて、寄越せと言われそうである。
 寄越せ……いや、うん、やれないな、と。
 九坂家の爺様に習った素振りを思い出し、やれないな、どうにもならずば戦うしかないのだろうな、と。
 到底、綺麗事だけで済む筈もないと思っている耀だから、必要ならばやるのだろうし、やるのなら勝たなければならないな、とも。
 せめてあの太刀(たち)を振るえる程度には……意識して眠りに落ちた耀の耳元へ、底なしの沼の底から響く、聞いた事のある低い声────。


『そう難しく考える事はない。その太刀は守りの太刀だ。己の身と行く道と、瑞波を守るだけの道具だぞ』


『凪彦……そう簡単に言ってくれるな……』
『ははは! 自信の無いお前を見られるのも今だけか。太刀(そいつ)は神代の時代から、耀を待っていたのだぞ。初めから俺のものではなくて、お前の為に誂えられた太刀なのだ。誰に師事しても構わんが、最後はよくよく話を聞いてやれ』

 聞いてやれ、って、太刀にか? と。夢の中で呆れた耀だ。
 凪彦はそのまま離れていきそうだったので、慌てて『そっちは元気なのか?』と問いかける。
 闇の中で僅かに笑った気配があった。
 元気らしい。加えて機嫌が良いようだ。
 互いに最後じゃないのが分かるだけ、耀の方も息を抜くように体を緩めて見送った。

『耀、耀、朝ですよ』

 天女が囀る声である。
 耀は寝ぼけていたのもあって、とんとん、と唇に指を乗せた。
 通じなければ通じないで構わない気持ちだったし、通じていても朝の瑞波なら知らぬふりをするかも知れなかったから。
 触れてくれたら運が良い、と仰向けになった耀である。いつまで経っても気配が無いので、駄目だったか、と目を開けた。
 そこには真っ赤な顔の瑞波が潤んだ瞳を細め、あと少しで耀の唇へ触れるかどうかという景色があった。

『…………』
『…………っ』

 真顔で迎え撃った耀に対して、瑞波は目を細めていたくせに見ていなかったようである。ほんの少しだけ触れた後、弾かれたように顔を離して、真顔で見ていたらしい耀に驚いた。

『〜っ! 起きていたのなら教えて下さいよ!』
『え。そんな勿体無い』
『も!?』
『うん。凄く勿体無い。朝から有り難う、瑞波。今日も一日頑張れる』

 天井を向き微笑んで、うぅん、と伸びをした耀である。
 凪彦の夢を見た気がしたが、記憶があやふやで遠くにあった。ただ、貰った大太刀は”守る為にある”言葉だけ。確かに、と思った耀は、それを芯に据える事にした。
 起きた耀の気配を読んで、扉の外から女房が。

「お早う御座います。朝の用意が済みましたら道場の方に。殿が耀殿をお待ちです」

 と。
 こうしてはいられない、と「はい」と返事を送ったら、お水は井戸の水をお飲み下さいと言われて、それにも頷いた。
 朝も青白い時間帯から動き始める人らしい。小便を済ませ、手を洗い、新しく汲んだ水をいくらか飲み込むと、前日、大神が降りられた道場へ、足を進めた耀である。
 九坂の家でも習ったか。耀は中で待つその人の姿を見ると、道場に踏み入る前の所で、失礼します、と頭を下げた。

「お早う御座います」
「お早う、よく眠れたか?」

 はい、と返した耀を見た人は、自分の隣に座るように誘(いざな)った。

「早速ではあるが、初めに祝詞を読み上げよう」

 す、と差し出された本である。
 大國神甲子祝詞、と書かれてあった。

「だいこくじん、きのへ(え)、ねの、のりと、と読む。甲の字で”きのへ”、子の字で”ね”、だ」
「はい」
「では、私が申し上げるから、横で聞いておりなさい」

 それは以前、浄提寺で、樹貴(たつき)に読まされた祝詞とは違う。型は似ているが別物で、特別な神に奏上されるもの。そうした雰囲気が文面に刻まれて、目で追いながら好奇心を持った耀だった。
 地津主(くにつぬし)、大己貴神(おおあなむちのかみ)夫甲子(それきのへね)とは、と。続く文字を見て漸く分かる。昨日、神棚の木札から降りていらした神様が、とてつもなく偉い神様だ、という事が。
 十月に瑞波をそちらに取られる……と妬いたけど、瑞波が”行かねばなるまい”と思うくらいには、とんでもなく高い所におられる神様だ。むしろ楽しみにして貰える瑞波とは……と。此処にきて恐ろしく感じた耀である。
 自分はまだまだ知らない事が多いのだ。
 出来るだけ多くの事を学ばなければならない、と思う。
 そうすると自然と背筋も伸びるようで、元々良い姿勢も更に芯を持ったようだった。
 特別な祝詞が終わると畠中の御当主は、礼を取り、拍を取り、深く身を沈めて耀に語る。

「さて、武術、武道とは。武の道に纏わる少しの話を、耀殿の耳にも入れておきたいが……よろしいか?」

 と。
 否やなどある筈もなく、並んで神棚を見上げる耀は、どうぞご教授下さいと、その人の話に耳を傾けた。

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