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君と異界の空に落つ2 第34話

「ヨウさん、どうされました?」

 此処にそうした文化は無いが、ウインクするようにお嬢様が手を伸べる。

「あ……ハタナカ様……実は迷ってしまいまして……」
「迷われた……? どちらに?」
「あぁ、はい。さえさんからクサカ様宛に、手紙を預かってきたのですが」

 まぁまぁ、と桜媛(おうひめ)は中々の役者魂で、送って差し上げますが、まずはうちで休まれては、と。口を挟む間もなく耀をやんわり誘(いざな)って、断る隙も与えずに気付けば塀の中である。

「今、冷たいお水をお持ちしますね」

 と。

「は、はい……有り難う御座います」

 答えた耀の方が小さく縮こまって見え、子供特有の遠慮を知ると、女房達の視線も和らいだ。
 これは凄い。一計を案じなくても懐に寄りさえすれば、後はあちら持ちで処理して貰えるらしい。女房達も違和感を覚えずに自然な流れで迎えてくれて、水を取りに行ったお嬢様の後に付いていく。多少あの日に仕込みをしていたとして、こうも上手くいくとは思えなかったから。さえが言っていた事にしたけれど、お嬢様も相応に、あの人が運命の人だと言われて嬉しかったのだろうな、と。
 ならば、と縁側に腰掛け待つうちに、こちらも仕込みを頑張らなければ、意気を持つ。気配は消して見えるが、勘を持つ耀である。隠れて様子を窺う女房が、拾い易いようにと懐の手紙を置いた。
 それからふらふらと道場らしい広間へ向かう。縁側がある床座の母屋の他に、床張りの別の建物が見えるのだ。開かれた雨樋の奥、遠目に神棚が張り付いている。駄目と言われる前に近付いて、それらしい演技をしなければ。
 隠れていた女房は、耀を止めるか手紙を取るか。上手く逡巡が生まれたようで、直ぐには動けなかった様。後ろ姿を見送るだけして、一礼をして上がった子供に、寺でも丁寧な童子だったから……と信用を賭けたようである。
 そうして手早く手紙を取ると、封の無い不用心なそれを見る。素早く視線を巡らせて、相手の伝えたい事を読み込んだ。
 ご安心下さい、貴方様のお心遣いのおかげで、狸は無事に渡って行きました。前後の挨拶文を省略すると、内容はそのようなものである。狸……? と疑問に思うが他に内容が無い為に、女房は誰かに気付かれる前、手早く文を戻しにかかる。それから耀が消えた棟へ向かって行って、悪さをしてはいないだろうか、と様子見をするのである。
 耀は順調に神棚の前に来て、祀られている木札から、神の名を読もうと試みた。手に取れる程、低くは無いので、何らかの神を示す名が刻まれていないだろうか、と。

『分かる? 瑞波』
『いえ』

 緊張感の無い声である。縁側で文を読むのに熱心な女房が、此処に着くまではもう少し掛かるだろうから。
 そうだよね、分からないよね、と見つめていたが、これも何かの縁である、祝詞をあげさせて貰おう、と。それらしいパフォーマンスが出来れば良いだけである。けれど、神仏を思う気持ちは本当だ。経文や祝詞を読ませて頂く時は、気持ちを改めて対峙する。
 吸い込んだ息は、短く、強かった。彼の空気が替わった事を、瑞波ばかりが理解する。他の神への祝詞というのは妬ける気もするけれど、満たされている今だから目溢し出来る。それに、他の神の気配はしないから。居ないと分かっているものに目くじらを立てる程、瑞波は心の狭い神じゃない。
 拝礼、拍打ち、凛と響く声である。毎日、朝晩と受け取っているけれど、命が強くなる程に、気持ちが篭っていく程に、受け取れる力が増していく。今、述べ上げているものは、瑞波の為では無いけれど、側で聞いているだけで心地よい旋律が、瑞波の心を癒し、慰める。
 うっとりと頬を溶かした祓えの神である。奏上が終わり、拍が鳴らされ、拝礼を終えた伴侶を見遣る。
 そうして、ほぅっと息を吐こうとした時だ。
 この場が急速に歪んでいくような、霞のような彩雲が、遠い場所から此の場所へ近寄って来るような。
 間違えようのないそれら気配は、瑞波が漫然と嫌うもの。この国の神々が、神棚の札を通して、この場に降りてくる気配(もの)である。
 慌てた瑞波が、離れて! と言うように、『耀!!』と叫んで、その場を脱出させようとした。
 呑気な耀は『うん?』と瑞波を振り返ろうとして、不意に固まる体を思い、視線だけを動かした。
 直ぐに後ろの瑞波も動けなくなったようであり、特に耀が感じた”力”は、後ろを向かせない力、前だけに対峙するよう、求める力であった。
 清らかというよりは、純粋な圧である。
 瑞波が道中、そして玖珠玻璃(くすはり)の前で見せたような、上の者が下の者へ掛ける”圧”ではなくて、只其処に居るだけで金縛りになるような、圧倒的な威圧が掛かるのだ。
 札から注がれるように流れ降りてきたものは、次第に人型をとっていき、着物の裾を引きずった。
 大黒様が着るような刺繍の入った野袴が、やけに印象的に映った美丈夫だった。瑞波には敵わぬし、凪彦にも敵わぬが、樹貴(たつき)のような日本古来のすっきりとした顔の男神である。
 着物も上質、袍(ほう)と呼ばれるものに近いが、横の髪で上下に二つ結い上げる”みずら”頭に、金と宝石で作られた豪奢なヘッドドレスが掛かり、首飾りに腰紐にと、兎に角、豪華な出で立ちだ。
 そんな男神がきりりと立って、耀を見定め、微笑をくれる。
 すっきりとした顔立ちだから恐ろしいかと思いきや、微笑を浮かべた尊顔は何とも柔和な雰囲気だ。言葉を与えられずとも、優しい事が察せられる。
 だから────という訳でもないが、動けないまま耀は暫く、そのお方と対峙した。

『妙な子供がいると思った……気付いたのが私で良かったよ』

 どうして隠れていたのだい? 祝縁が切れてしまっているではないか。

『あぁ苦労しただろう。だがこれは僥倖だ』

 男神は”よしよし”と頭を撫でるようにして、途切れてしまっていたらしい”縁”を繋ぎ直してくれたらしい。自分にもその”縁”の先が白糸のように視えていて、これを辿れば”自分の事”が分かりそうだと勘付いた。此処での”自分”は耀乃(あけの)の事じゃない。この体の元の持ち主。凪彦がくれた、肉体の持ち主に掛かるものである。
 何故そんな事をしてくれるのか耀にはさっぱりだったけど、『これで善し』と呟く人は満足そうにして見えた。その人から感じるものは善意の塊で、繋いで貰った事により、耀は元の体の持ち主の、持ち主に掛かる部分の”守護”を受け取れるような感覚だ。
 つまり、”血”に刻まれた御守護は勿論、この国の民として、迎え入れられた感覚だ。凪彦が一度その”縁”を絶ってしまっていた訳だから、その状態で参っても何の利益(りやく)もなかったが、これから先は機会があって社殿に参る事があれば、この国の民として御利益を頂ける。
 それがすっと入り込むように理解出来た感覚で、だから、感じた男神の波長を、善意の塊、と評する訳だ。

『貴方様は……』
『おや。これは。私の姿が見えるのかい?』

 頷くように瞬いた黒髪の童子を見遣り、『言葉も通じるという事か……?』と男神は不思議そうにする。

『神代と人代が離れて久しいが……声が届く者が居るとはな。成る程。凪彦が懐に隠した訳だ。何故そのようになっているのか私にも分からぬが、其れは主の中ならば大人しくしてくれるらしい』

 全く奇妙な話だが、主の魂が其の神を慰めると言うのなら。

『途切れた縁は繋いでやろう。なれど、其れは私の手にも負えぬもの。主が黄泉へと渡る時まで沙汰を決めておこうと思うが、私は見守る事しか出来ぬやも知れぬ。私の庇護に入る者として、生きているうちは観ていてやろうと思うがな……』

 柔和な男神は、此処で一旦、まぁ良い、と呟いて。

『この家の者に、神託を受けたと伝え、私の縁者の世話になりなさい。信じられないようならば卜占(ぼくせん)に示してやるから、と。それから、娘もよい歳じゃ、早う子をもうけろとも伝えて欲しい。折角良い男と繋いでやったのに……今年の神議(かみはか)りまで纏まらないようならば、今の男には劣るだろうが別の男と繋いでやろう。其の場合は都の男になるが、執着の激しい男故、娘と孫には会えぬと思えよ、と。ふむ……そうだな。近くの家でも嫁に出すのが惜しいと言うのなら、二郎君を貰い受けよ、と伝えなさい』

 二郎は必ず家に戻るようにしてやろう。何、私が守護する娘だ、豊玉比賣(とよたまひめ)を遣わそう。男(おのこ)の四人や五人、観てやるからとも伝えなさい。

『くれぐれも血を絶やすでないぞ。私が言った、と、そのように』

 はい……と浮かんだ思念の先が、男神に吸い込まれていくようだ。男神の前には瑞波の圧も露か霞のようであり、それが分かっているからなのだろう、大人しくするしかない彼だった。

『時に瑞波────』

 言葉を飲んだ彼である。
 男神の柔和な視線が興味深げに注がれており、それを受けた瑞波の方は緊張が走る顔をした。
 気配で分かる。
 張り詰めた瑞波の気配である。
 ぐっと言葉を飲み込んで、男神の言を待つようだ。

『気に入ったのか?』

 張り詰めた空気(もの)に対して、柔和な男神の問いは優しい音だった。
 はい、と言おうとしたのだろうが、不意に男神は『あぁ、よい』と。

『すまぬ。脅かすつもりは無いのだ。ただ、気に入ったのかと思うてな。守っていてくれたのならば天照様に代わって、私が礼を述べるとしよう。しかし……其方も、人を好ましく思う事があるのだな。今年の神議り、舞を楽しみにしているぞ────』

 発せられる圧に対して至極素朴に、男神は呟いて、ではな、と囁き消えていく。
 神棚の札を通って、自分の社に戻ったらしい。彩雲が吸い込まれるように木札に消えたので、動くようになったらしい四肢を感じて、後ろの瑞波共々、安堵の息を零した耀だ。

『誰……? 今の……』
『名を申し上げるのも恐ろしい方ですよ』
『え。それ、本気?』
『本当です』

 多大な温情を掛けられてしまいました。今年は神議りに行かなければなりますまい。
 呟く瑞波は心底嫌そうな表情を浮かべたが、耀が与えられたもの、その大きさを知っていた。其の方が許したという事は、この国の民として、耀は多くの恩恵を受けられるようになったのだ。彼の人生は前よりずっと、楽になる筈である。
 人代の治世を甕槌(みかずち)様に譲った後だが、今でも多くの神々に慕われている方である。神議りは嫌いだが、彼の方の為ならば、舞わない訳にはいかないだろうと瑞波も思う程。
 共に神棚の方を向いたままだったので、女房の目には”呟く子供”。神棚と喋る子供の姿だけ、神秘的に映ったようだった。
 これ、と後ろから声を掛けられた女房である。
 何を見ている? と通り掛かった御当主だ。
 その頃、桜媛(おうひめ)は、やっと決めた菓子を持ち、続いた女房達と一緒に自分の父親が、庭に立ち尽くす女房へ声を掛ける様子を見ていた。

「あ……殿……」

 さっと礼をして後ろへ下がる。
 ばつの悪そうな顔をして俯く女の前を、桜媛の父親が無言で過ぎていく。

「そこに居るのは誰だ?」

 厳しい声だった。
 はっとした耀が慌てて、その場に膝をつく。

「御無礼をお許し下さい。こちらの神に呼ばれまして……」

 これでもかと深く深く頭を下げた耀の奥で、桜媛が毅然と「私の客です」と声を上げた。

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