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『虎に翼』 花岡と轟、そして「ロッカールーム・トーク」について

ふたりの男性像の対比

今回、『虎に翼』に登場するふたりの男性、花岡(岩田剛典)と轟(戸塚純貴)について考えてみたい。女性については語れない私も、男性についてであれば多少はなにかが言えそうな気がするためだ。彼らは、主人公の寅子ともこ(伊藤沙莉さいり)が通う明律大学の同級生だが、このふたりの登場人物を通じて語られるテーマは「男性性」である。フェミニズムのドラマであれば避けて通れない題材であり、『虎に翼』の男性性に対する解像度は非常に高い。見ながら、自分にもこうした言動を見聞きした経験が確実にあったと、過去の記憶がよみがえってきた。そして、ちゃんと嫌な気持ちにさせてくれた。それは本作の脚本が優れていることの、なによりの証左である。

劇中、いっけんフェミニスト風で理解のありそうな花岡は、次第に女性差別的な内面を露呈してしまう。一方、寅子との出会い頭からミソジニスト全開であった轟は、実は公正を理念とする、わりあいに筋の通った人物であり、公正さについて考えるための語彙が不足していたと判明する。この男性像の対比が、同じ男性である私から見て、とてもリアルに感じられたのが驚きだった。わけても17話、花岡が周囲の男子学生に吹聴する「女ってのは……」のくだりには、まったく同じ話を聞いたことがある! と身を乗り出さずにはいられなかった。これはいわゆる「ロッカールーム・トーク」と呼ばれるものだ。

locker room talk
(slang) A type of boastful, lurid, chauvinistic conversation that commonly takes place in all-male locker rooms, especially such conversation concerning sexual conquests and the like.

ロッカールーム・トーク
(俗語)男性だけの更衣室でよく行われる、自慢げで、下品で、男尊女卑的な会話の一種で、特に性的な武勇伝などに関するやり取り。

男性が語りつぐ謎の言説

容姿のよさや能力の高さから多くの女性に好かれる花岡は、彼に手紙を渡そうとする女性を無下に追い払ったのち、周囲の男性に「女ってのは、優しくするとつけ上がるんだ。立場をわきまえさせないと」と語る。「あっ、こういうこと言い出す人いた!」と私は戦慄した。過去に、全く同じ話を聞かされたことがある。しかし、男性がこうして長年に渡って語りつぐ「女に優しくするとつけ上がる」言説とは、いったいどういう伝統なのだろうか。男性はなにを怖れて、このような話をするのか? 私はかつて周囲の男性から「女は、相手の男を自分より格下だと認識した途端、興味をなくすから、つねに『こちらが格上だ』という態度を取り続けないといけない。優しくするなどもってほかだ」と教えられた。まだ人間的に未熟だった過去の私は、そうした言葉を真に受けてしまい、女性に優しくしてはいけないのだと思い込んでいた。女性に優しくすれば、その時点で関係が終わってしまうものだと、かなり本気で信じてしまっていたのである。ずいぶん有害な言説だったといまでは思う。格上とか格下とか、ずいぶん窮屈で気が小さい発想である。

男性同士が密かに交わすロッカールーム・トークは、基本的に女性には見聞きできないはずで、脚本家の吉田恵里香が、なぜこうした会話をドラマのなかで緻密に再現できるのか、不思議でならない。周囲の男性に取材したのだろうか。いずれにせよ、このリアリティには頭を抱えるほかない。さらに激烈であるのは、当の花岡本人ですら、こうしたロッカールーム・トークで饒舌になる自分自身を嫌悪していた、というくだりである。これには「深い」と唸ってしまった。実に妙なのだが、自分に自信がない男性ほど、過度に周囲に迎合して下卑たロッカールーム・トークを繰りひろげてしまう、という悪循環が実際にある。「女ってのは……」と語る花岡を見ながら、私はどことなく「本人も無理をしていないだろうか?」という印象を持ったのだが、その予想は当たっていた。こうした品性下劣な話題で盛り上がれないのは「男らしくない」のであり、ロッカールーム・トークに嬉々として興じる図太さがなければ周囲に認められない、と花岡は思い込んでいたのだろう。こうした悪循環から脱却する花岡の姿を、画として明確にとらえた19話のショットは実に印象的である。

男性性から自由になれた花岡

みごとな構図。梅子(平岩紙)へ非礼を詫びる花岡と、そのやり取りを柱の影から聞く轟、寅子。画面を奥から手前に使ったショット構成が、花岡が男性性を乗り越えていくまでの過程を示しているように見える。轟がいなければ、花岡は梅子へ謝罪できなかっただろうし、みずからの非を認めてこそ、花岡と寅子のあいだに真の理解が生じる。この関係性が、画面奥から引かれた1本の線のようにつながっているのが映画的なのだ。また、公平さを尊ぶ轟が「男らしい」というとき、それは単に「公平である」という意味であり、公平であることに性別は関係ないため、彼は自分の語彙が足らず、齟齬を起こしていることに気がつく。このようにして、花岡も轟もプラスの方向へ内面が変化していく、というあらすじに『虎に翼』のポジティブさがあると思う。

【スキンケアの本を書いたので読んでください】

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