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『アンテベラム』と、恐怖の暗喩

それはいったいどのような経験なのか

アメリカで人種差別にさられるとは、どのような経験なのでしょうか。その恐怖を具体的に想像するのは難しいものです。「たまに嫌がらせをされる」といった程度のイメージしか湧かない人も多いかと思いますし、実際に差別される側の立場になってみなければわからない肌感覚の恐怖があるはずです。米国内でなぜBLM運動があれほど大きく広がったかといえば、「一歩間違えば殺されてしまう」という切迫した危機感があったからでした。本作でプロデューサーをつとめるジョーダン・ピールの監督作『ゲット・アウト』(2017)や『アス』(2019)は、そうした恐怖を肌感覚で伝達するために大胆な暗喩メタファーを利用する手法が用いられています。すべては「アメリカに生きるアフリカ系の人びとは、普段どのような身の危険を感じているのか」を理解してもらうために必要な手段なのです。

『アンテベラム』は、人種差別の恐怖とはいかなるものかを、驚くようなアイデアと共に観客へ提示した快作です。物語は、アメリカの大規模農園プランテーションの様子を描写する場面から始まります。劇中、農園内に南軍旗が掲げられ、軍服を着た兵士が歩いている様子から、米国はいま南北戦争の最中であり、おそらく年代は1861年から1865年のあいだであろうと想像されます。農園はどうやら軍の宿営地を兼ねており、兵士はそこで食事や休息をしています。冒頭、農園から脱走しようとした奴隷の黒人女性を銃殺する衝撃的な場面が描写され、奴隷制度の残酷さが強調されます。黒人奴隷たちにとっては地獄のような場所です。一方、南軍の兵士はみな士気が高く、命を張ってでも南軍を勝利させ、奴隷制を維持すると意気込んでいました。主人公のエデン(ジャネール・モネイ)は、農園の奴隷である黒人女性。いつか農園から逃げ出したいと計画を練っていましたが、脱走のタイミングが見つかりません。

メッセージを伝達するためのアイデア

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あらすじに関して紹介できるのはここまでです。映画を未見の方に、この先の展開がもたらす驚きを新鮮に体験してもらうため、これ以上の説明ができません。作品を見ていると、現代を生きるアフリカ系アメリカ人が普段感じている恐怖はいかなるものかを伝えるには、ここまでの想像力の飛躍が必要なのだという点に驚きます。アメリカにおいて黒人であるとはいかなることか。そして本作が優れているのは、劇中のサプライズ要素が「人種差別とはいかに愚かしく、虚しいものであるか」をより強調する点にあります。物語の構造が見えた後では、白人たちの行動がみじめに思えてなりません。差別する側のプライドがいかにちっぽけで壊れやすく、その維持のためにどれほどの労力が必要か。映画を見終えた観客は、差別の虚しさにあきれ果て、同時に、それでも続いていく差別という問題の根深さにおののきます。この力強いメタファーの力に胸を打たれました。アメリカに生きるアフリカ系の人びとが感じている恐怖とは、まさにこの映画に描かれる悪夢のような状況なのです。

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