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イブラム・X・ケンディ『アンチレイシストであるためには』(辰巳出版)

レイシストとはどう定義できるか

この本を読むまで、私は人種差別主義者(レイシスト)ではないと思っていた。自分がそのような行為や言動をするはずがないと思い込んでいたし、「レイシストでないこと」は何か属性のようなものとして、つまり、私は男性であるとか、福島県出身であるとか、そういった「揺るぎない基本条件」に近いものだと考えていたのである。しかし『アンチレイシストであるためには』(辰巳出版)の著者イブラム・X・ケンディは、こうした考え方に異を唱える。ある者がレイシストでないのは、たまたまある場面でレイシスト的にふるまわなかっただけであり、次の場面ではレイシストの言動をするかもしれない。その判断は瞬間ごとになされなくてはいけない。「人はある瞬間にレイシストになれば、次の瞬間にアンチレイシストにもなる。人種についてなにかを発言し、なんらかの行動をとるたびに、どちらの状態にあるかが決まるだけだ」と著者は述べる。人種差別主義者であるか否かは流動的なステータスで、その都度個別に確定されるほかない。

『アンチレイシストであるためには』は、1982年生まれの著者イブラム・X・ケンディの半生をふりかえりつつ、彼がいかにして「アンチレイシスト」という思想へ辿り着いたかを描いた1冊である。他者を尊重する社会に必要な思想としてのアンチレイシズムとは何か、が本書のテーマだ。しかし何より誠実なのは、黒人である彼がレイシズム思想に毒されていた、という過去を赤裸々に語る点にある。彼は高校のスピーチコンテストで、「黒人が怠惰であってはいけない」というテーマで発表をしたことがあった。彼はそのスピーチの内容がいかに人種差別的であったかを反省しつつ、自分自身に巣食っていたレイシズム思想を語るのだ。「過去にぼく自身のなかにあったレイシズムについては無かったことにして、いまの彼らのレイシズムだけを批判するなどという都合のいいことはできない」と述べる著者は、過去の自分のあやまちを包み隠さずに読者へ伝える。度を越して正直というか、もし私なら黙っておくだろうと思うような内容もすべて書いてしまっている彼を好ましく感じた。

黒人の若者は勉強がきらいだという典型的なレイシズムの考え方をもちだし、彼らを非難した。よく耳にするこの主張は俗説にすぎず、正式な調査で裏づけられたものではないことなど、だれも気にかけていなかった。聴衆の拍手に背中を押され、ぼくは証明されてもいないし、証明することもできない黒人の若者についての抽象をさらにまくしたてた。黒人の若者のすばらしさを訴えるべきこの場で、黒人の若者を糾弾しつづけた。(…)拍手喝采を浴び、すっかり高揚してスピーチをしながら、ぼくは無自覚だった。ある人種集団を蔑むことは、その人種集団が劣った存在だというのと同じだということを。ある人種集団が劣っていると言うことは、レイシズムをあらわにするのと同じだということを。

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正直に語られる過去のあやまち

自分がレイシストであったと認めるのは非常に困難だが、著者は自分の過去を正直にさらけだしつつ、どのようなあやまちを犯してしまっていたかを語っていく(たとえば黒人エリート層や高学歴者は、黒人の低所得層に対して苛立ちや不満を抱くことがあり、それは同じ黒人のあいだでのレイシズム思想につながっているといったこと)。たくさんの聴衆を前に、いい気になって愚かなレイシズム思想を開陳してしまっていた高校時代の著者の姿は、本人にとっては悪夢のような記憶だが、だからこそ読み手に届く切実さがある。同時に、読み手であるわれわれもまた、似たような間違いを過去に一度はしてしまっているはずで、自分が人種差別主義者でないかどうかは、その都度の言動によって個別に決定されるしかないのだとあらためて思う。次の機会にも、レイシストとしてふるまわないように気をつける、その繰りかえしを続けていくしかないのである。

さらには、著者にとって「レイシストでないこと」は十分ではない。われわれは「アンチレイシスト」にならなければいけない、と彼は述べる。多くの人種差別主義者は、問題のある言動を非難されると決まって「私はレイシストではない」と答える。これは「レイシストでないこと」は消極的であり、社会を変える力になり得ないことを示している。他者を真に人として見ること、尊重することは、より積極的な自己認識、すなわち「アンチレイシストであること」によってしか達成できないというのが著者の結論である。とはいえ、「アンチレイシストであること」にたどりつくまでの道のりも非常に険しく、著者は多くの失敗を経験しながら進んでいく。こうした困難や迂回について語る彼は本当に正直で、きっと気持ちのいい人物なのだろうなと想像してしまう。「アンチレイシストであること」が具体的に何かについては、本書を読んでいただくしかないが、最後まで読み通してもらえれば「自分自身が真に人間らしくあるための、そして他人を真に人間として見るための戦い」が「アンチレイシストであること」なのだと納得してもらえるだろう。

妻を愛し、子どもを愛する夫としての著者の姿にも胸を打つものがあり、彼の両親から始まる家族史としての側面も実にすばらしい。さまざまな困難はあれど、豊かな愛情と人間関係に恵まれた人生を送っている方だと感じる1冊でもあった。身近にいる人びとを愛しながら生きている著者の率直さ、誠実さがよく出ている本で、地に足の着いた他者との関係性から、「アンチレイシストであること」がひとつの線でつながっている感覚、大きな目標としてのアンチレイシズムが絵空事のように乖離せずにしっかりと現実に結びついていることが、本書いちばんの魅力であろう。血の通った人間が書いたあたたかな本を読んだ、という読了感が嬉しかった。

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