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『アステロイド・シティ』と、作り物の世界

箱庭で完成させた精緻な世界

ウェス・アンダーソンの作品は、近年になり、とても入り組んだ物語の構造を持つ、きわめて人工的でフィクショナルなものに変化しています。箱庭で完成させた精緻なミニチュアの世界のような、他の映画監督には真似できないイメージを提示してきているのです。例を挙げれば、実際には存在しない国「ズブロフカ共和国」にある架空のホテルを舞台にした『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)。人形を使ったストップモーションアニメで描かれる犬たちの物語『犬ヶ島』(2018)。また、フランスにある架空の村に編集部を持つ雑誌「フレンチ・ディスパッチ」がテーマとなる『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(2022)では、雑誌に掲載されたエピソードが映像で再現される、という入り組んだ物語形式が取られています。そのどれもが、非現実的なまでに人工的で、シンメトリーであり、カメラは律儀に横移動を続け、リアリティが徹底して排除されつつ、目を疑うほどカラフルに彩られているのです。

シンメトリーすぎる構図

今回の『アステロイド・シティ』は、舞台で演じられる劇だとされています。画面のルックは普通のドラマのように見えますが、この状況はあくまで、いままさに劇場の舞台上で演じられている「演劇」だという設定です。ああ、ややこしい。非常に人工的な(これまた架空の)町アステロイド・シティに滞在する人びとは、みな劇を演じる役者であるため、ときおり舞台裏の楽屋へ移動してみたり、会話の途中で「台本があるでしょう、読んでみて」などと言い出したりします。ウェスは、この映画がセットのなかで演じられる作りものであり、台本によって進行する演劇であることを観客に目配せしつづけるのです。冒頭、アステロイド・シティへ向かう列車は、いかにも「模型の列車です」といった風情を隠すことなく、これまたミニチュアセットのように平たいサボテンが生える砂漠を、重量感なくカタコトと移動していきます。ことほどさようにウェスにとって、リアリティはない方がむしろ都合がよいのです。映画に出てくる場面が、なぜこれほどに左右対称に、完璧な配置でなければいけないのか、もはや誰にもわかりません。ただ、現実感を排除するためにこそ、ウェスはすべてをシンメトリーにしなければいけないのです。

宇宙人祭りの始まった町

映画にとってリアリティとは

あらゆるリアリティを排除した画面と、感情の起伏のない、平坦な話し方をする登場人物。演劇の舞台を映画化し、その舞台裏や原作者までを入り込ませる複雑な構造。そして、美しい色彩と、完璧なまでに左右対称な画面。ウェスはこうした(ややこしい)下準備を経て、ようやく人間ドラマを描くことができます。リアリティをどこまでも排除した先にしか、人間ドラマは存在しない。それがウェスの信念です。私が胸を打たれたのは、「宇宙人のために歌を作った」という子どもが、その曲を披露しようとすると、バンジョーやギターを持った楽団があまりにタイミングよく登場して、陽気なカントリーソングを演奏し始め、そこにいた大人も子どもも、みながいっせいに踊り出すという場面です。あの唐突さ。どこからともなく現れた、としか形容できない楽団が身にまとう衣装の統一感も不自然ですし、手を取って踊り出す女性教師とカウボーイ風の男の、意気投合した雰囲気もよくわかりません。しかし、そこにはリアリティの欠如ゆえに、ウェス作品にしかない躍動がみなぎっているのです。

あまりに人工的なセット

これまで多くの映画作家が、映画にリアリティ、迫真を持ち込もうと苦心してきました。映画にとってリアリティは無条件でよいことであるように、私も思い込んでいました。しかし、ウェスがより映画を人工的に、作り物のように、箱庭のように作り込んでいくとき、そこでしか描けない人間のドラマが浮かび上がることに感動するのです。ありえないほどに色あざやかで、シンメトリーな世界に生きる、静かな声で話す人びとの映画。彼らはいったい何者なのでしょうか。このリアリティの欠如は何事なのでしょうか。しかし考えてみれば、私たちが日々職場へ行って働くことだって、実はずいぶん演技じみていて、冷静に考えれば妙なことなのではないかと思うのです。

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