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それでも映画館へ行く理由

試写会に行かないのはなぜ

映画ライター的な依頼を受けて原稿を書くようになってから、15年くらい経った。考えてみると、結構長いことやっている。ライター業を続けていくうち、ある時期から試写会のお知らせをたくさんもらうようになった。家にハガキがきたり、メールで試写のお知らせがきたりするのだ。試写会はたいてい平日の昼間で、フリーランスの人であれば行けるのだろうけれど、私は行けないので、これまでに試写に行った経験は2~3回といったところ。ではもし、自分が仕事をしなくてものんびり暮らせる富豪的な身分だったとして、試写会へ行くか? と言われると、たぶん行かないと思う。私はあまり試写が好きではないのだ。ただ、試写のハガキをもらうのは嬉しいので、箱に入れてコレクションしていたりする。

どうしてか試写が苦手なのか? と考えると、私にとって映画は「社会的なイベント」であるためではないかと思う。だからこそ、どういう状況で見るか、場所や環境のセッティングが重要なのである。封切日の映画館には、独特のにぎやかな雰囲気がある。たいていは金曜日だが、ある映画が公開した初日の劇場には、その作品を心待ちにしていた観客がやってきている。そのため劇場内には「待ちに待った映画がようやく見られる!」という目に見えない雰囲気、バイブスがみなぎっているのがよくわかる。私はそのみなぎりに興味があるのだ。たとえ同じ作品であっても、見る場所や時間、セッティングを変えると、映画体験そのものが変化する。試写会場には、そのみなぎりがない。会場にいる人びとはみな、パンフに寄稿したり、雑誌にレビューを書いたりするために、あくまで仕事として試写会場にいるのだ。全然みなぎってない。

映画館でないと体験できないこととは?

「社会的イベント」としての映画

「社会的なイベント」としての映画を体験できたとき、私は劇場まで足を運んでよかったと思う。たとえば『THE FIRST SLAM DUNK』(2022)のラストで桜木のシュートが放たれ、得点するまでの無音の時間をじっと見守る、満員の観客。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023)で、マリオとドンキーコングが敵に向かって勢いよく走り出した瞬間に、近くの席にいた小学生の子どもが歓声をあげた瞬間。そうした体験は、映画そのものよりも鮮烈に、記憶に残っていたりする。鑑賞体験が「社会的なイベント」に変化したとき、映画はヒットするように思うし、それは『マッド・マックス 怒りのデスロード』(2015)や『シン・ゴジラ』(2016)といった作品が大きく広がった要因ではないだろうか。公共の場としての映画館には、鑑賞体験そのものを劇的に変化させるポテンシャルがあり、そこに集まってくる人びとが映画体験のひとつの要素になる、そうした体験が私は好きなのだ。

ここ最近、映画館の入場料金が2000円に値上がりした。TOHOシネマズが最初に値上げを始め、他社が追随している状況だ。サブスクリプションは月額およそ1000円だから、1回見に行っただけで2000円は割高に感じられる観客も多いだろう。そうなると、映画館にとってもっとも重要なのは、いかに「社会的なイベント」としての映画を体験させられるかにかかってくるような気がする。もちろん、音響設備やスクリーンの大きさなど、映画館にしかない要素は多いが、個人的にそうした要素は二次的なものだ。それより私は「社会的なイベント」としての映画を体験したいのである。サブスクリプションサービスは、ウォッチパーティーなどの機能を通じて「社会的イベントとしての映画」を提供しようと試みているが、劇場の体験にはさすがにかなわない。それだけは、サブスクリプションサービスが提供しにくいものだ。そうなれば今後、劇場は観客へ「社会的なイベント」としての映画の興奮や楽しさを提供することに賭けるしかないだろう。

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