見出し画像

私も『虎に翼』について語りたいのだけれど

NHKの連続テレビ小説『虎に翼』がすばらしい、という話をしたいのだが、いざ文章を書く段になると、どうしても気がとがめてしまう。評判のよさは聞いており、放送開始からやや遅れて見始め、いまはその展開に夢中になっているところだ。とはいえ『虎に翼』に関しては、自分のような者が論じていいのだろうか、と逡巡してしまう部分がある。好きな作品について黙っていられないのは、Born to be 文化系な私の性分なのだが、なぜ『虎に翼』が見る者の心を動かすのかを力説すればするほど、作品の本質からずれていき、説得力を失ってしまうような気がするのだ。おそらく私が取るべき最善の方法は、シンプルに「みなさん、ぜひ『虎に翼』を見てください」とだけ書き、NHKの番組ホームページのリンクを貼って記事を終わりにすることなのだけれど、それができないのが悲しき文化系の業である。だから、恥を忍んでもう少しだけ書く。

本作を端的に表現すれば「長らく話を途中で遮られてきた女性が、ついに自分の言葉を語り始めるまで」を描いた物語である。では、そもそも誰が話を遮ったのか。言うまでもなく男性である。こうした物語の構図を語るときに、一介の中年男性である私が声高に「この作品の解釈は……」などと講釈を垂れることが、そもそも『虎に翼』のテーマにそぐわないと感じてしまう。「女性が声を発する」というフェミニズムを語るのに、男の声がデカくなってどうする、という気持ちになるのだ。やはり私が論じるべきではないと思う。それはわかっているのだが、作品を見れば見るほど、語りたいディテールが山積みになってしまうのが悩ましい。たとえば2話で、海老の天ぷらをほおばる寅子ともこ(伊藤沙莉さいり)のあっけらかんとした表情はどうだろう。まるで寅子が「自分は性別にとらわれない、自由な存在だ」と宣言しているように見えて、胸が締めつけられるのだ。あるいは、同じ2話で結婚への抵抗感を語った寅子に、「受け入れちゃいなさい、なにも考えずに」と笑顔で語ったお手伝いさん(田中真弓)の言葉が持つ、途方もない呪縛の響きはいったい何事か。

また3話で、学校教師(伊勢佳世)から「(進学をすれば)お嫁のもらい手がなくなる」と忠告された父親の直言(岡部たかし)が、「あるに決まってるじゃないですか先生、だってウチの寅子ですよ」と答える大らかな声についてだって語りたいし、それを言うなら、5話で寅子に「(女性が法律の世界に携わるのは)時期尚早だ」と言い放った桂場(松山ケンイチ)へ、「そうやって女の可能性の芽を摘んできたのは、どこの誰? 男たちでしょう!」と激しく啖呵を切ってみせた母親のはる(石田ゆり子)の感情のほとばしりを誰かと共有したいと思う。しかし、そうした細部を語れるのが私でないことはあきらかなのだ。これまで私は実人生において、なるべく誰かの話を遮らないようにしてきてはいるつもりだが、それでも、過去には誰かの話を遮ってしまっていたかもしれない。一方、男性であることで不快な思いをせずに済んだり、得をしたりした経験は数え切れないほどにあると思う。

私はいま、『虎に翼』の1話ずつを大事に見ているところである。初めて見たNHKの朝ドラが『虎に翼』でよかったと思う。世の中がもっと生きやすい場所に変わればいいなと願いながら、この作品を追っている。いままで一度も「スンッ」とした表情をせずに済んだ側の人間として、心底申し訳ない気持ちになりながら、ただただ応援している状態だ。これ以上のことは言えないが、なにしろ語る資格があまりないのだからしかたない。いずれきっとどこかの誰かが、この作品のすべてを言い尽くすような、みごとな批評を書き上げてくれると思う。私はその文章を読んで、誰に聞かれるともなく「まさしくそうなのだ」と口にするはずで、それ以上のことは私に求められていないような気がする。そのため、この記事もここで終わりとなる。できれば、1話の最後で見合いの相手(藤森慎吾)に面罵され、なにも言えず口ごもってしまった寅子の顔つきについても語りたいのだけれど、それもきっと、語れるのは私ではない誰かなのだ。

【『虎に翼』は語りにくい私も、スキンケアについては語り倒しましたので、この本を読んでください】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?