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虫眼鏡で言葉を見る

葉に「こと」を乗せて、言葉にする前に、いっそ、その「こと」を食べてしまいたい。
最近はそんなことを考えている。
大切なことは、自分の一部として身のもとに携えておきたい。空気のように軽いことほど、いとも容易く口元から抜け漏れ、泡沫の如く消えてゆく。私たちは(というか私は)言葉というものを、あくまでも意思疎通の媒体、道具として軽率に扱いすぎてはいないだろうか。
まるで、体の一部のように自由気ままに自動車を運転するかの如く。
高速に文章を打ち込むスマートフォンのフリック入力かの如く。
かくいう私も、課題解決の海へ深く潜りすぎてしまったがため、言葉を道具化し、やけに上手に使いこなせるようになってしまったものだから、罰が悪い。
これは、言葉を虫眼鏡で観察し性質や特徴を知ることで、私にとっての言葉の在り方について再定義することを企図している。

言葉を道具化する。何も珍しいことではないが、生存本能の果てに磨き上げられた言葉は、熾烈な生き残りの過程で「自分たちを守るため」の機能が拡充され、武器としての側面がより強化されるようになった。
だから、自分を守ることができる。他方で、容易く何かを傷つけ、死に至らしめることができてしまう。使い方を間違えると、言葉は道具から、簡単に武器へと変容してしまうということだ。
そんな繊細な道具を、私は常日頃使いこなしているつもりになっている。(音声・視覚言語問わず)

言葉が、行き過ぎた道具・武器へと変容するのは、どんな「こと」を伝えるのか。その「こと」と、言葉を取り扱う主体にすべてが委ねられているのではなかろうか。
大切な「こと」を、自分の一部として携えておきたい理由がここにある。
本当に大切な「こと」は、自分だけが知っていればよい。その大切な「こと」が、思わず発露してしまう瞬間においては、「笑い声」や「泣き声」といった擬声語のそれに変換され出力されるのかもしれない。また、「こんにちは」や「ありがとう」など、共生する上で必要不可欠である大切な「こと」たちは、積極的に言の葉に乗せて届けていきたいと考えている。
私はこれからも、カレーを食べるスプーンのように。パンに切れ込みを入れるクープナイフのように。程よいスピードで漕げる自転車のように。言葉はあくまでも、手の元に収まる小道具の範疇に定義し、使っていきたいと思う。

久しぶりに言葉を失えた場所

終わり

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