「人間にとって科学とは何か」を読んで
湯川秀樹/梅棹忠夫「人間にとって科学とはなにか」を読んだ。
知の巨塔みたいな二人の対談は、意外にも「ようわからん」と言い合っているフワフワとしたものだった。1967年の対談なので古いといえば古い。しかしその中でも、未来を予見していたり、真理を探究していく道筋に驚きを感じる部分も多かった。
という問いから始まる。
今現在の私達にとって科学は、生まれた時から身近にあって、それがなんであるかなど考えたこともなかった。
科学が扱う対象は、人間離れした「奇妙なもの」になってきていると。
情報、というと何か別次元の話のように思うけれど、混沌に対し秩序を指定する設計図のようなもの、らしい。
情報理論の話は難しくてちょっとよくわからない。
人の心も電気に乗ってやってくる、という話にも繋がっていく。
梅棹はここで「科学とは生殖作用の延長ではないか」と述べている。この考え方はツボにハマったらしく、その後も「性の衝動とならんで、知の衝動、知的好奇心というものも、人間行動のもっとも根元的なものの一つだというわけです」「科学によって人間は勃起し得るかどうか」「科学のワイルドな勃起作用」などの言が度々出てくる。
科学を「男性的なもの」と捉えたことはなかったが、あらためて考えてみると、まさに今の世界を造っている科学技術の突っ走り方は男性的と言えるのではないかと思う。
ここでフェミニズムを発動することになるとは思わなかったが、兵器を作っているのも戦争をしているのも男性だ。女性は何をしてきたのかと言えば、博士のご飯を作ってあげていたのだろう。毎月数日体調の悪い女性はそんなに突っ走れない。
食欲、性欲、睡眠欲、などというが、これらは欲ではないだろう。生き物としての生命活動であり、自律神経やホルモンに支配された行動だ(病的なものは除く)。むしろ知識欲こそが欲なのではないだろうか。
この欲には際限がなく、宿主を殺すウイルスのように、自らの環境を破壊することになっても止まれない。
この対談の最後に、湯川は唐突に上田秋成『雨月物語』の中の「青頭巾」の話をする。「なにか科学の本質と人間の将来を暗示しているようにも思われる。」というのだ。
ここに「青頭巾」のあらすじは書かないが、物理学者である湯川が「科学」についての話を寓話で締めくくるのはどうなのか、と思う。
1967年はまだまだ呑気だったということか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?