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「人間にとって科学とは何か」を読んで




湯川秀樹/梅棹忠夫「人間にとって科学とはなにか」を読んだ。
知の巨塔みたいな二人の対談は、意外にも「ようわからん」と言い合っているフワフワとしたものだった。1967年の対談なので古いといえば古い。しかしその中でも、未来を予見していたり、真理を探究していく道筋に驚きを感じる部分も多かった。

梅棹  科学もまた、芸術や宗教とならんで、人間がつくってきた創造物の一つでしょう。初めから、宇宙のはじまりから、人間と無関係に存在していたものではない。人間がつくりだし、そして人間にとって何か意味のあるものだからこそ、今日までいわば育てあげてきたものであるわけでしょう。その、人間にとっての意味はなんでしょうか?

という問いから始まる。
今現在の私達にとって科学は、生まれた時から身近にあって、それがなんであるかなど考えたこともなかった。

湯川  (…)量子論をつくりだした物理学者マックス・プランクが、繰り返し使った言葉に、「人間からの離脱」というのがあります。

科学が扱う対象は、人間離れした「奇妙なもの」になってきていると。

湯川  物質とかエネルギーとかいう概念に入っていないものとして、重要なものがいろいろある。中でも、従来の物理学の領域に比較的近接しているもの、一番つながりがありそうなものは「情報」です。

情報、というと何か別次元の話のように思うけれど、混沌に対し秩序を指定する設計図のようなもの、らしい。
情報理論の話は難しくてちょっとよくわからない。

湯川  情報というものは、現実にはなにかもの、、に乗って現われてくるわけでしょう。電波に乗るとか新聞の活字に乗るとか、エネルギーでも物でもかまいませんけれども、とにかく何か形をなしたもの、、に乗って現われてくる。

人の心も電気に乗ってやってくる、という話にも繋がっていく。

湯川  (…)人間をほかの生物から切り離すのは、いろいろな理由があると思います。早い話が、人間を最上位に置くのに都合のいい価値体系をつくることだってできる。しかし科学というものは、本来、なるべくそれをせんというのがタテマエ、、、、ですね。科学というものの本質は、没価値の立場から研究するのだということでしょう。
梅棹  そこが大変重大なところだと思うんです。むしろ科学というものが価値から離れているというそのことが、人間が科学を生み続けてきた一つの原動力であるといってもいい。でき上がった科学にあとから価値づけをすることはできるんです。しかし、なにかの価値のために、科学をつくり出してきたのではないと思うんです。(…)なぜ人間は科学を生みだすのか、生み続けるのか。(…)科学というものは、なにか根元的なところから出てきよる。その根元的な力は、いわゆる価値などというものから離れたものではないか。いわば科学が次々と出てくるのは、人間存在の根本原理としての一種の生殖作用の延長ではないか。

梅棹はここで「科学とは生殖作用の延長ではないか」と述べている。この考え方はツボにハマったらしく、その後も「性の衝動とならんで、知の衝動、知的好奇心というものも、人間行動のもっとも根元的なものの一つだというわけです」「科学によって人間は勃起し得るかどうか」「科学のワイルドな勃起作用」などの言が度々出てくる。

科学を「男性的なもの」と捉えたことはなかったが、あらためて考えてみると、まさに今の世界を造っている科学技術の突っ走り方は男性的と言えるのではないかと思う。
ここでフェミニズムを発動することになるとは思わなかったが、兵器を作っているのも戦争をしているのも男性だ。女性は何をしてきたのかと言えば、博士のご飯を作ってあげていたのだろう。毎月数日体調の悪い女性はそんなに突っ走れない。

食欲、性欲、睡眠欲、などというが、これらは欲ではないだろう。生き物としての生命活動であり、自律神経やホルモンに支配された行動だ(病的なものは除く)。むしろ知識欲こそが欲なのではないだろうか。
この欲には際限がなく、宿主を殺すウイルスのように、自らの環境を破壊することになっても止まれない。

この対談の最後に、湯川は唐突に上田秋成『雨月物語』の中の「青頭巾」の話をする。「なにか科学の本質と人間の将来を暗示しているようにも思われる。」というのだ。
ここに「青頭巾」のあらすじは書かないが、物理学者である湯川が「科学」についての話を寓話で締めくくるのはどうなのか、と思う。

梅棹  はっきりした結論は出ないと思います。科学は究極的な答を与えてくれませんなあ。


1967年はまだまだ呑気だったということか。





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