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無事千字 二〇二四年四月十四日 晩酌しながら音楽番組に悪態をつく

 晩酌をしながらの夕食支度中に、なんだか、自分でも嫌になっちゃうくらい悪態をついている。流し見してるテレビの音楽番組に対して。

 唄をうたうひとを十把一絡げ(ジッパヒトカラゲ)に”アーティスト”と呼ぶようになったのはいつ頃からだっただろう。僕の中では、きれいや可愛いやかっこいいビジュアルも魅力だけど、楽曲制作やセルフプロデュースして、アイドルと一線を画す(したい)歌手が出てきた頃からと記憶している。

 歌手(シンガー)だけでは括れないってことなんだろうけど、それをざっくり”アーティスト”と呼ぶのにはずっと違和感を感じている。

 僕はK-POPがてんで分からないし、元ジャニーズは嵐以降、LDHや坂道に関してはメンバーが増減したりするもんだから、個人では多少認識できても、誰がどのグループ所属なのか、まるで分からない程度には疎い。

 それくらいの知識で言うのもなんだけど、ここ数年、画一的過ぎやしないか?見た目も楽曲もK-POPに寄り過ぎてるなと感じてる。どっちかっていうと、特に男性”アーティスト”に。

 それが主流なんだろうけど、”本場”からもばんばんニューカマーが出てくるんだから、そこはかなり真っ赤っかなレッドオーシャンだと思うのだ。

 例えば、元ジャニーズは作り上げてきた「型」みたいなものがあったと感じる。もちろん、時代を見据えて、アウトプットの仕方は変われど、「型」があったはず。

 それは連綿と続いてきた日本独自の文化で、誇れるものだと思うのだけれど、海外のマーケットを見据えて…という理由なのかもしれないが、それがK-POPの真似事で通用するんだろうか?

 作詞家・作曲家による”THE・歌謡曲”の時代から、80年代の山下達郎に始まり、00年代の槇原敬之や、10年代なら米津玄師など、”ミュージシャン”が元ジャニーズのアイドルたちに楽曲制作をする時代へと移行してきたけど、それだって、グループの「型」にハマるような作品として着地したからこそ、長く愛される名曲が多いはず。

 懐古的な話をするつもりはないけれど、リアリティのない、ちょっと悪ぶったリリックに今どき高速ラップなんてされると、うわずみをすくってるようにしかみえないし、リアルなバンドマンに提供された曲をまんま唄われても、それは本人たちが演ればいいんじゃないの?などと悪態をつきたくなる。

 所属事務所内にグループが多く、それぞれにキャラ付けが必要なのは分かるし、それはそれは難しいことだろう。でもね、「温故知新」じゃないけれど、忘れちゃいけない、捨てちゃいけない部分を間違ってるように思う。

 「型」は一朝一夕でできるものではないし、作ったひとがクソだから、そこから離れたから、といってシフトチェンジや独自性を求めた結果、ビッグウェーブに乗っちゃうのは違うんじゃないか。

 今どきのバンド、一部のアラフィフタレントにも悪態をついてるんだけれど、あまり気持ちのいい話題じゃないので、この辺で。




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