みっちゃん



 
「みっちゃん、それ何」
 Aはみっちゃんの作っているブックカバーを眺めてそう言ったが、みっちゃんと呼ばれた女の子は返事をしない。みっちゃんは、首から上を机からひょっこりと出して、目の前に広げられた厚紙や折り紙の散らばりをキョロキョロと眺めている。みっちゃんが首を左右に揺らすたびに連動して分厚いボブの髪型も揺れている。
「これか?」
Aはすでに大きな丸い穴が複数空いた厚紙を手渡した。みっちゃんは口を閉じたままうなづく。みっちゃんのブックカバーに張り付いた折り紙のチューリップをみて予想されるに、今からチューリップの茎を貼り付けるらしい。その右手に持った緑色の折り紙を切りとるということは思いつかなかったのだろうか。分厚い紙でないと気が済まなかったのだろうか。こだわりか、子供は融通が効かないからな、Aは思った。
みっちゃんはAの姉の子供、つまりAの姪にあたる。みっちゃんはAに連れられて市役所五階の会議室にいた。毎月開かれる幼児向け工作教室に参加するためだ。三月のテーマは春のブックカバー作りで、Aとみっちゃんは折り目のついた大きな一枚の紙をクレヨンや折り紙で飾り付けていた。

 二ヶ月前にこんなことがあった。 
 Aは他のグループメンバーが書いたレジュメを読みながら悪態をついていた。一月の夜で、電気代を食う割にはあまり効かない備え付けのエアコンに頼らず厚着をしてAは机に向かっていた。
三日後にグループ発表を控えていた。芸術そのものならいざ知らず、芸術史など興味を覚えた試しは人生の中で一度もなかったが、時間割上では都合が合ったので取り敢えず受講している授業。一時的に作られたグループLINEにはどうやら積極的に行動するタイプの人種がいたようで、「了解です!」の一言を送る以外にAにはなんの労力も使わせずにレジュメを完成させてくれた。しかしAは腹が立っていた。
「わかりづらいな」
 Aが読むパートの文章が文法的に間違えている部分が一箇所ある。Aは自分が貶められようとしているのではないかと考えた。俺があまりにも話し合いに参加しないから軽んじられているんだろうか。そうだ、思えば俺の人生は昔からこのようだった。俺をぞんざいに扱う他人が、俺を見た目や一言二言話しただけで分かった気になった薄っぺらい他人が。
 そんなことを考えて、Aが爪で木の机にばつ印をぐりぐりを彫っていたところに電話が掛かって来た。姉からだった。
「あんたいつ帰ってくるの」
 Aは一ヶ月後には春休みを謳歌している予定だ。アパートからバスで三時間かかる実家にも久しぶりに帰省する予定である。しかし、この期末の忙しい時期に電話なんかしてくるなよ、とAは姉に対して声を少し低くして答える。
「三日から、十七まで」
「丁度よかった」
「なんで」
「私、入院してるじゃない」
 ああ、と納得して沈黙が起こる。電話口に姉の息がかかっている。この息には毒がある。今俺の姉は怪物だ。息を吐くだけで草木を枯らす怪物と、一緒だ。
「お母さんが、一週間弱佐藤さんと旅行行くって」
 Aは静かにため息をついた。母親は五年前にAの父親と離婚し、一年ほど前から新しい恋人と付き合っている。関係は良好らしい。Aは一度だけその男と会ったことがある。母親よりも背が低く、優しい言葉遣いをした。Aと初めて挨拶をした時、わざわざメガネケースを取り出して眼鏡を外し、「こんにちは」と言葉を発していたのを覚えている。その過度に礼儀正しい癖のほかには特に目立った印象をAに与えることはなかった。ただ、Aは五十を過ぎた母親が年甲斐もなく恋愛をしているのが恥ずかしい、と古典的な思考を持って軽蔑していた。
「その間、母さんの代わりにみっちゃんの面倒見たらいいってこと?」
「そう。どうせ暇でしょ」
「俺のこと覚えてるかな」
 みっちゃんとはAの姪だ。Aが最後に姪に会ったのは大学に入学する前なので、三年ほど時間が経っている。
「今は小学二年生。大人っぽい子よ。あんたと同じくらいの精神年齢かもね」
 姉の受話器の向こうではフクロウが鳴いていて、姉が病室の窓を開けているのだろうとAは思った。
 
 雲が近くの山の背後に少しだけ覗いている。その雲の白さが山の緑をより一層深い色にする。春の陽気が地面から、空から、建物の明るい色の反射から裏起毛の長袖を着たAを襲ってくる以外はすこぶる無害な天気だ。晴れた三月の平日の一時半に、どんな問題が持ち上がるというのだろうか。いつか美術館で見た輪郭のぼやけた絵画のように、時間はそこで打ちつけられている。未来と過去と思想と生活から、Aは分離されている。キャンパス生地の薄さがそのまま現在の薄さだ。
 図書館に寄って行こうかと聞いたがみっちゃんは首を振った。両手でブックカバーの付いた絵本をしげしげと眺めている。いい出来のものができて嬉しいらしい。
「歩こうか」
「うん」
 みっちゃんに数年ぶりに再会したのは数時間前だが、当たり前のようにみっちゃんは手にすがってくる。じわりと手に汗が滲むことを一瞬気にしたが相手は小学二年生であると考え直して特に謝罪は述べなかった。
 市役所から実家までの道はAが上京するまで高校へ登校していた道程と重なっている。たった三年では風景に変わった点は見られない。目を凝らせば、看板の色褪せ具合や建物の経年劣化だけが変化として気が付くほどだ。
夏にだけ繁栄するこの海辺の街は新しいマンションが建つこともショッピングモールが建つ様子もない。海以外ないのだ。春、秋、冬には誰も目を向けない。記憶の中ですら消えていて、梅雨の季節から初夏の間に人々が夏の予定を立て始める頃に初めて思い出される。
海を見たいな、と思ったAはみっちゃんに少し遠回りして帰ることを提案した。みっちゃんは感情を表さずに否定をする様子も嬉しがる様子も出さない。Aはみっちゃんの顔を覗き込むことを諦め、「じゃあ行こうか」と一方的に宣言した。気分を損ねることもなければ、子供らしく懐くこともない。全く掴めない子供だ、気持ち悪い。一回りも二回りも小さな指をしっかりと握りながら、Aはそう思った。
海を遠くに眺められる道を歩きながら、茶色い壁の家を通り過ぎて、そういえばここはクラスメイトの家だったとAは思い出した。偶然、その家の庭に人影が見えて、Aはしばらくの間立ち止まって眺めた。
 みっちゃんがスンと鼻を啜って、みっちゃんとAの気配を察したその家の人物が振り返る。花壇の草むしりをしていた男性は立ち上がってその背丈の高さを披露したと思えば、Aに「こんにちは」と挨拶をした。ここは狭いコミュニティだから知り合いだと思ったのだろう。そして、それは確かにAの元クラスメイトだった。
「藤田」
 男はAの名前を呼んだ。
「サワダ」
 Aも男の名前を呼んだ。
「え? お前の子供?」
 サワダが目に笑みを浮かべながらそう言う。そこで自然とAも笑った。
 Aもサワダと呼ばれた男もどちらも県外の大学に出ていた。非常に低い割合で起こりうる再会だった。お互いの現状を述べ合った。Aは相手に見下されないような部分だけを切り取って話した。
「だから今は姉貴の代わりにこの子のこと見てて」
「はー。お前は優しいもんなあ」
 サワダは元陸上部の(大学ではテニスサークルに所属したらしい)爽やかさを持って、白い歯を剥き出しにする。この男はまだ俺のしたことを根に持っている、Aは思った。 
 サワダは高校生時代、生徒会に立候補した。Aはサワダに応援演説を頼まれたが嫌がった。なんで俺がお前のために、いつもつるんでる同じ部活の奴らに頼めよ。そんなに俺とお前は仲良いか? 俺が成績がいい方で、陰気過ぎないからだろ。しかし、Aは決して嫌がるそぶりは見せなかった。
え! 超重要な役割じゃん。なんか嬉しいわ。いやーでも俺文章かけないし、絶対票下がるわー。あ! 佐々木さん、ちょっとこっち来てよー!
Aは自分より内気で自分より成績の悪い図書委員にその役割をさせることで場を逃れた。
気づいていたのだろうか。サワダが副会長を落選した時に、Aが内心安堵し、むしろ嬉しがっていたことを。
どちらも連絡先を交換しようと言い出すことなく、当たり障りのない盛り上がり方をしてひと段落ついたところでAはサワダと別れた。
砂が靴に入り込むのが嫌だったのでAは遠くから歩きながら海を見た。塩の香りは馴れ馴れしくて上品さに欠ける。自然の現象であるくせに自然の持つ気高さなどは感じられなくて、人間的だとAは思う。生まれた時から、高校を卒業するまで海の匂いがしない範囲を出なかった。海の匂いがA の活動範囲の全てであり、社会だった。今、Aは大阪に住む自分を誇らしく思うと同時に海の近くで暮らす人々に同情している。
「綺麗なだけだな」
 Aは機嫌良く呟いた。みっちゃんはA のそんな呟きが聞こえていたのか聞こえなかったのか、Aの見る方向を同じように眺めた。
 
 雨が降っている日、Aがみっちゃんと自分の分の親子丼を作っていると、みっちゃんがひょこひょことふたつくくりの髪の毛を左右に揺らして足音も立てずに台所へ来た。
「何してるの」
みっちゃんが首を傾げて言う。二つくくりの髪の分け目は一直線にみっちゃんの頭頂部から首筋までを分断している。元々の髪が短いから、みっちゃんのくくっている左右の髪はフランケンシュタインの頭を貫通する釘のように、直角的に頭から飛び出している。その髪は自分で結んだのだろうか。みっちゃんはぐずることもなければ好き嫌いをすることもない。風呂も自分で勝手に入ってるし、9時になると一人で静かに就寝している。確かに大人っぽい子なのかもしれない。
「お昼ご飯は親子丼だよ。親子丼好き?」
 みっちゃんはこくりとうなづいてそのまま走ってどこかへ行った。Aがみっちゃんを外へ連れ出したのは初日だけで、あとはずっと雨に降られていた。A自身も、雨が止んだとて、小学二年生の女の子を楽しませるにどこへ連れて行けばいいのか見当がつかなかった。
「みっちゃん、お母さんのとこお見舞いに行く?」
 ウルトラマンの印刷が剥げた幼児用のスプーンを使ってみっちゃんはどんぶりを食べている。このスプーンはおそらく俺が小さい頃に使っていたやつだなと記憶を掘り返してAはそう思った。
「行く」
 みっちゃんは目も合わさずにAの問いかけに答えた。Aはみっちゃんに好かれているのか嫌われているのかわからなかった。しかし別にどちらでもよかった。
 
 病院の窓口で受付を終わらせるとみっちゃんがAに雨が止んだことを教えてくれた。病院に行くと決めてからみっちゃんは良く喋るようになった。やっとA に懐いたのか、母親に会えることで気分が高揚しているのか、おそらく後者のせいだった。
 病室のAの姉は少し太っていた。普通入院を経たなら以前よりやつれているものだと思っていたが、あまりベッドから動かないからだろうか。Aは病室の隅で親子が戯れるのを眺めながらそう考えていた。Aはあまり姉に近寄りたくなかった。空気感染する病気でないと分かっていても、なるべく遠くに椅子を置いて座っていた。
 Aが飲み物買ってくると言ったらみっちゃんも付いて行くと言うので二人で一階の売店を目指した。
粘土のような独特な匂いのする廊下を歩き、ある患者とすれ違った時、Aは強烈な既視感を覚えた。風の匂いで季節と一年振りの再会をする様に、それは知っている何かがAの五感を通ったことを激しく伝えていた。
 初めは耳から。
「あ! こんにちは。みっちゃん」
 続いて視界から。
 みっちゃんが「こんにちは」と返事した目線の先には線の細い女性が立っていた。女性はAのことをちらりと見て会釈をした。茶髪が髪の半分だけを染めていて、長く髪色を染め直していない。服装から入院患者であることが分かる。みっちゃんのことを可愛がってくれているのだろうか。
「藤田トオルです。みっちゃんのおじで」
 女性はAの自己紹介になんの反応もしない。少し目を見開いて、しばし無言になる。Aの方が先に分かった。
「あ、吉井さん」
「いや、吉川だけど。そうだよねえ、藤田くんだ。あー、狭いねやっぱり。すごい」
 Aは名前を間違えたことを小さな事で早口に詫びた。そして、すぐさま高校二年と三年の時に吉川と同じクラスメイトだったことを思い出す。
Aは記憶の扉を懸命にこじ開ける。ポケモンGOのことを少し話した気がする。複数人でゲームについて話していた時に吉川さんも参加しててポケモンGOしてるんだ、って思った気がする。一回だけ吉川さんの席が斜め前だったな。後は、何かあったか。
「でも覚えててくれて嬉しい」
 名前忘れてたけど。Aは心の中で少しだけ謝罪する。しかしすぐに、こいつの影が薄かったのが悪い、と吉川を責める独り言を胸に吐いた。
「みっちゃん、吉川さんと遊んでくる」
 みっちゃんは吉川さんの手をグイグイと引いた。今までAには見せなかったアグレッシブさだ。
「吉川さん、お部屋で遊ぶ? みっちゃん、吉川さんの漢字書けるようになったよ」
 みっちゃんはAを蚊帳の外に話を進める。Aをちらりと見た吉川は三人で遊ぼうか、と言った。Aと吉川、みっちゃんの三人は中庭に出た。雨の匂いがまだした。見上げる病棟はひっそりとしていて話し声も鳥の声も聞こえない。誰かが時々咳をする。開け放たれた窓からカーテンがバッと音を立てて飛び出ては、ひらりと部屋に戻る。中庭は広く、芝で覆われている。丸い面積の真ん中を廊下が真っ直ぐ走っていて、ガラス張りの廊下からこちらを見ることができる。時々看護婦が早歩きでガラスの向こう側を通り過ぎる。こちらに見向きもしないで。
 ランダムに植えられた木の、その内の一本の下でみっちゃんは笑っている。根元に空いた穴に手を突っ込んではキャッキャっと一人で笑っている。
「入院してるの」
 Aと吉川は影に覆われたベンチに座っていた。吉川は統合失調症だった。
「藤田くんは今はたまたま帰ってきてたんだ」
 Aは自分の今の生活を話すことに少し身構えた。しかし避けるべき話題は、Aが大学では友達がいないことに関する部分だけだったのでそこまで神経質になる必要もなかった。Aは話題をこの土地のことに向ける。
「そう、今帰ってて。俺そういえば、たまたまサワダと会ったよ。マジで狭いよなー」
「やばいよねー。いいなあ私も早く出たい、藤田くんみたいに」
 「藤田くん頭良かったからなー、いいなー。私一応女子大受かったけど家から通えちゃうんだよね。気がついたら病気なっちゃったし」と吉川は続ける。Aは嬉しかった。久しぶりに人から称賛されたように感じた。
 
「みっちゃん今日うどんだよ」
 Aは夕食を作りながら鼻歌を歌う。病院に行ってから、特に吉川さんと会ってからAは機嫌がいい、とみっちゃんは感じた。
 Aが一人でぶつぶつと呟いている。みっちゃんは計算ドリルを解いているふりをしながらその独り言に耳を傾けてみた。
「俺だって、無意識にでも相手を見下さないと気がすまないこの性格に飽き飽きしていた。実際。でも少しずついい方向に進んでいる。あほらしい。運ゲーだ。たまたま俺のことをよく知っている人は俺を適切に評価して、俺のことをよく知らないやつが勝手に蔑む。俺は社会というものがわかり始めたんだよな。思えば、映画化された本を読めるようになったし、隣人の目を気にせずアマゾンで置き配指定ができるようになった」
「俺は」とAが続きの文を言おうと主語を発したところでみっちゃんは聞くのをやめた。みっちゃんは少し不快に感じていた。しかし、その自我の小ささから自分が不快に感じていることには気がついていなかった。
 みっちゃんが不快に感じた理由は簡単だ。Aが他人のためではなくA自身のために生きているようだったからだ。Aはみっちゃんのクラスメイトのハジメくんに似ている。ハジメくんは教室で飼っているカメの餌を自分以外の誰にも渡さないで、自分だけが餌やりを楽しむ。
 そもそもAはいつも献立を勝手に決めるが、みっちゃんはうどんなんて食べたくなかった。本当はカレーが食べたかった。お母さんはいつもみっちゃんが何食べたいか聞いてくれるのにな。お母さん早く帰ってこないかな、とみっちゃんは思った。
 

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