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私の記号論と実践

ツイッターじゃなくてエックスのツイートじゃなくてポストよりコピペ。

私が最初に意識した《記号》というワードは《記号的消費》の《記号》、即ちボードリヤールの著書中に見られる概念だった。で、それを手っ取り早く掴める本はないかと手に取ったのが南堂久史『記号論ハンドブック』であり、話はソシュールから始まっていた。そんな訳でその後、惑星記号、(続/承前)元素記号、ヘブル語アルファベットやなんかが世界の在り様の一部を切り取り指し示す様を、シニフィアン/シニフィエの問題として捉えることになった。

昨今の記号接地問題に寄せて言うと、シニフィアンとしての記号には、話者の身体(性)に接地できるものとできないものがある。しかし、それが指すシニフィエは、修行ないし心掛け次第で必ず体験体感できる。という根拠のない確信が私の信仰です。

エビデンスを要求しない実在としての身体性は、言語に優先する。昨今の生成A Iを巡る議論上のナンギのほとんどは、この一文で整理できるんやないか。あとはプラグマティックな落とし所探しなんで、どんな極論も不要だ。


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