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ライターとしての目標はなんですか?

#ドーナツトーク は、誰かが出したお題についてのバトンリレー式の連載。書き終えたら次の人を指名し、最後はお題発案者が〆めます。

思えば、私の世界はいつも狭く、浅い。

音楽ライターをやっていたとき、興味があったのは、世の中的にはほとんど知られていないインディーズバンドだった。無事にメジャーデビューが決まると、私の役目は終わったような気持ちになって送り出し、勝手にひと区切りつけて、新たなインディーズバンドを発掘する。ライブハウスよりも広いところへ出たいとも、出ようとも思わなかった。なぜなら、アリーナやホールクラスのライブを見ても、小さなハコで体験するライブの感動にはどうしても及ばなかったからである。

おそらく私は、小さな世界だからこそ得られるダイレクトな感動と、空間の中に埋め込まれ、自身もその一部を形成しているかのような「自分ごと」としての場のあり方に魅力を感じていたのだろう。小さな世界での体験は、鮮明で強烈だ。だから面白いし、私が影響され、影響を与えているという事実は、社会を動かしているという実感にも結局のところつながっていた。そして私は、それでもう充分満たされていたのである。

目標というより、願いのようなもの

ときを経て、私は、ライターとしてソーシャルデザインという領域を多く取材するようになった。しかし、やっぱり本質は変わらなかった。

社会を変えたり、変えようと試みている多くの人にお会いし、話を聞くたびに共感する。力になりたいとも思う。しかし私自身には、社会を変えたいという気概も、変えようというエネルギーもない。自分が社会に何事かを及ぼすことができるなんて、到底思えなかった。

だから改めて「ライターとしての目標はなんですか?」と聞かれたときに、パッと頭に浮かんだことは、我ながらとてもささやかな「願い」のようなものだった。

「お前には、ライターとしての人格を決定づける信念、あるいは壮大なビジョンというやつはないのか…?」

しかし、考えても考えても、狭く浅い私からは、そんなに強く明確な「何か」は出てこないのだった。なんなら、そんなときに考えて出てくるものといったら、もはや浅いを通り越して浅はかであって、まったく使い物にならないのである。

だからやっぱり、最初に頭に浮かんだことを正直に書くしかないのだと思う。

「相手が言ってないことも書くライター」
と言われて気づいたこと

数年前、あるイベントに参加した。そのフリータイムで知人や友人と談笑していたとき、そこそこにお酒を嗜み、ほろ酔いで私たちの輪に加わった男性がいた。その人は、私の名前を聞くなり目を見開き「平川さんってめちゃくちゃいい記事書く人ですよね! ファンです。いつも読んでます!」と、なにやらとても感激してくれた。そう言われて、私とて悪い気はしない。嬉しいなぁと思ってニヤニヤしていると、さらに言葉が続いた。

「あれですよね! 相手がインタビューで言ってないことも記事に書いちゃうんですよね!」

2秒、止まった。

「……え、それってライターとしてダメじゃない(笑)?(軽くディスられてる?)」

苦笑いで突っ込むと、その人は慌てて話を続けた。

「いや、そうじゃなくて、インタビューのときは言わなかったのに、記事になると『それ、なんでわかったの? 言ってないのに!』っていうことが書かれてるって、平川さんの取材を受けた何人かから聞いたことがあるんです」

そう言われて、私自身がハッとさせられた。

「インタビュイーが言っていないことが書いてある」というのは、インタビューライターとしてはマイナス要素になってもおかしくない事態である。でもそれが、言ってはいないのだけど心の中にあった思いだったり、本心であったり、言葉ではうまく伝えられなかった核心であったりするとしたら、それは逆にインタビュイーの思いをより深く正確に伝えるという意味でプラスに働くことになる。

言葉と心のあわいにある、微妙なニュアンスを汲み取ること。

自覚的にそうしていたわけではなかったが、それが私の文章の強みであり、やりたいことなのだと気づかせてもらった瞬間だった。以来、私はプロフィールに「リアリティを残し、行間を拾うストーリーライター」と書くようになった。あの、ほろ酔いのお兄さんのおかげで、ライターとしての「道」を見つけることができたのである。

たったひとりに届けることから、真の広がりは生まれる

じゃあ、なぜそんな文章を書く(書ける)ようになったのだろう。

その理由として思い浮かぶのはひとつだ。

それは私が「届けたいと思う人の顔を思い浮かべて、その人に届けようと思って原稿を書いている」からである。それは大抵の場合、ごく少数の限られた人の顔であり、もっといえばインタビュイーその人であることが多い。

私のライターとしての目標は、つまりこれなのだと思う。

「最初に思い浮かんだ、たったひとりに届く文章を書くこと」。

心を開き、深い話をしてくれた相手に対してのリスペクトは、自然と「いい記事に仕上げたい」という思いに繋がる。長いインタビューの中からどの話を盛り込むかを選び、そのストーリーに込められた胸の内を探り、言葉尻の微妙なニュアンスを咀嚼する。あるいは、相手の真意を読み取り、最後にはその真意を伝えることのできる言葉を見つけ出す。いつのまにか私の思いや見解も紛れ込んでいるが、それは書いているうちに出てくるものであることが多い。そうこうしているうちに、記事全体の流れがきれいに決まる瞬間がやってきて、結論は大抵、意図的ではなく、自然に導き出される。

インタビュイーの思い、私の「伝えたい」気持ち、言葉の裏に隠された真意。それをたったひとりに向けて、ときには見えないまま、ときには見える形で、原稿として再構築していく。

それができている文章は、(当然だが)インタビュイーにとても喜ばれる。しかも結果的に、インタビュイーの周辺の人はもちろん、一般の読者にも受け入れられる記事となることが多いのだ。逆をいえば、たったひとりを心から感動させられなければ、その記事はサラサラと流れていって誰の心にも残らない、ということなのだと思う。

たったひとりに届けばいい、だなんて、それだけ聞くと私の目標はとても小さい。でも、たったひとりに届けるからこそ、その原稿は濃密で、とてつもなく大きな力を秘めることになる。

狭く浅い私は、ずっとそう信じている。

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次は、池田さんにバトンをお渡しします!

「書くことで目指す目標みたいなものがあるんですか?」

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