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上関町のこと、祝島のこと

山口県上関町の上関原発建設予定地。
ここは数十年に渡り、建設予定地の浜の正面にある祝島の人たちが
漁業補償金の受け取りを拒否し、海と故郷を守るために
反対活動を続け、建設を阻止し続けてきたことで知られている。

ドキュメンタリー映画もいくつか撮られ、
そのうちのひとつ「祝の島」のチラシのイラストを
私が住んでいる藤野在住の絵本作家・西村繁男さんが描いたことや
周囲に抗議活動に参加していた仲間がいたことで
私もその経緯をよく知っていた。
映画上映会も開催したし、大きな抗議行動が起こるたびに
インターネットでその様子を見守り、発信した。

原発事故前のことである。

原発事故後、建設計画はストップし、無期限延期状態となっていた。
絶対に「中止」とは言わないあたりが、そら恐ろしいとは思っていた。
人々が原発事故の恐ろしさを忘れることを、意地でも待つつもりなのだと思った。

それでも、小さな問題はありつつ、
事故後は目立った動きがなく平穏を取り戻していた。
事故がきっかけというのがなんとも言えないところではあるが、
それについては、本当によかったと思っていた。

ところがこの地に、数日前、突如
「使用済核燃料の中間貯蔵施設」の建設計画が持ち上がった。
そしてわずか数日で、事態は急速に進んでいる。怖い。ただただ怖い。

まだ住民を苦しめるのか。
そう思うと、日本という国に対する怒りが湧き上がり
絶望としか言い得ないモヤモヤに包まれる。

最近はずっと静かだった「祝島島民の会」のツイッターアカウントが
切迫した様子で投稿を続けている。
「民意とは何か」という悲痛な言葉がグサグサと突き刺さる。

原発事故から12年。
おそらくますます高齢化が進んでいるであろう町の住民をまた二分し、
暮らしを破壊する日々が始まろうとしている。

こうした開発の問題は、推進派と反対派でまちを二分する。
それがなによりもつらいことだということを
私自身がリニア工事の直接の当事者となって痛いほど知った。
上関町ではそれが何十年も続いている。

電気を使っている私たちも当事者である。
原発の是非に無言をつらぬく私たちも当事者である。
遠いどこかの話ではない。
そのことを忘れてはいけないと思う。

原発事故後、西へ自主避難する途中、
4日間、上関町へ滞在した。
今回、そのときのことを振り返って何か書こうかと思ったのだが
古いブログに当時綴った文章が残っていた。
よければぜひ、読んでもらいたい。


当時、考えたこと、感じたことを
私たちはもう一度、思い出さなくてはいけないのではないだろうか。

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