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陰湿インターネット、キライ

この前ふと目にしたポストに深く感心したのだが、「人間関係のコツは、その人を嫌いにならない距離まで離れること」と書いてあった。

確か結構伸びているポストだったのだけども、自分が普段から気を付けていることだったので、同じような人もいるのだなと少し嬉しくなった。

誰に対してもヘイトの感情を持ちたくない自分は、人間関係において、そんなに心の奥の方まで見せる必要がないと思うし、別にうわべだけの付き合いで構わない。

それは誰彼構わず迎合するということではなくて、分かり合えないことがあったとしても分かり合える部分だけで繋がることができると思うから。

ある意味互いの考えを尊重しているとも言えるし、ある意味干渉し合わないドライな関係とも言える。


(任意の人物)が良い人か、悪い人かというのは、どちらかというと自分との関係性の上で判断するべきだと思っている。

最初は態度悪いなと思っていた人が仲良くなると大いに心を開いてくれたり、逆に、誰にでも優しそうに見える人が腹黒かったりする。

周囲からの評判が悪い人物であっても、自分が関わるぶんには特に何も気にならない場合もあるし、逆に、周囲に人が集まっているように見えても、自分のセンサーでは全然感覚が合わないと思う人もいる。

だから、昨今mbti診断が流行っているけれども、話半分に見てるというか、正直、あんまり気にしないでいたいし、最初から人を決めつけて関わりたくない。経験上、他人の印象は信頼関係や立場、利害、機嫌など、あらゆる指標に左右されるフレキシブルなものだと思うからだ。

なので、他人がどのような人物かを判断する材料というのは、自分に見せる顔だけで構わないと思っている。

そして、誰かの噂話をするのもあまり好きではないし、個々の関係性に水を差すような気がするからあまりしないようにしている。


アイドルに対する考えにも似ていて、アイドルが「見せている部分だけで判断して欲しい」と考えるのであれば、こちらも見せている部分だけを見られればいいと思う。

アンチの揚げ足取りにも左右されたくない。だから公式が出しているものか、良さについて語る投稿しか見たくないと思うし、それ以外に言及したくない。

(人がそれをしていることを非難したいのではなく、あくまで自分がそれを見ること・することを避けているという話。)


で、お気持ち表明っていう行為があるけど、自分はそれが苦手なのだ。

読み手のリアクションがほとんど可視化されないからだ。

仮に持論を述べて、それをタイムラインで500人が見るとする。

深く共感する人、敵対視する人、何割存在するかはさておき、490人にスルーされて10人にいいねを貰っても、あんまりスッキリしない。むしろモヤモヤが加速する。見えないところでレッテルを貼られる。正直打ち明け損だと思ってしまう。

それは仮にサークルでも鍵垢でも同様である。この人になら心を許せるなと思う相手が、同様に自分のことを思っているとは限らないから、安心したら終わり。

話せば分かってもらえる事が殆どなはずなのに、SNSに書いたら、その文章だけで判断されて話が終わってしまうと感じる。

これはキャッチボールとドッジボールの違いのようなものだ。

だったら誰彼構わずに意見を表明するより、誰かひとりと対面して直接聞いてもらう方が好き。

文字なんかより真意が伝わるし、意見をもらえるし、話さない方がいいと思ったら途中でやめれるし、よほど心が晴れるような気がする。

(じゃあ何でnoteに書いているのかというと、長文なので誤解されにくいと思うのと、物好きしか読まないと思っているから、いくつかのデメリットを回避できる手段だと思ったからである。)


結局自分がどういう考えを持っていて、何かについてどう思うか・どう動くかという内側の世界が一番大事であって、それが他人の意見や風潮と同じか・違うかということってそんなに重要か?と思う。

自分と違う意見の人がいるのは当たり前なので、わざわざそれを視界に入れて怒りの感情を増幅させてもキリがないと感じる。

何も語らない人が何も考えていないわけでは決してない。

他人との違いを表明したくなるということは、他人に共感されたい・説得したいという下心があるか、もしくは考え方の異なる人を排除する心理があるのかな、と推察する。

だけど、簡単に他人の気持ちなんて変わらないし、ましてや、関係性がなければ聞く耳を持ってもらえることは少ないし、正論であっても反感を買うことがある。

ただ自分がスッキリしたいというだけでやみくもに公の場にぶちまけているのなら、自分の機嫌は自分で取れよ、と思ってしまう。


本当に自分の意見の答え合わせをしたいなら、閉ざされた場所で、関係性の上で話を聞いてもらう方が健康的に感じる。

話を聞いてくれる人が何人かいればそれでいい。

関係性のない人に対しては、理解される必要をそもそもあまり感じない。